机上の言の葉
「正確には、魔法を使ってカズト君が唄ちゃんと出会わないようにする。
携帯に入っている、唄ちゃんの連絡先やメールも全部削除して、連絡も禁止する。
カズト君が出来るというのであれば、唄ちゃんの声は治してあげる」
アリスの声が右から左へと抜けていくのを、何とか阻止して、出された選択肢を天秤に乗せる。アリスの言葉を聞き間違えていなければ、願いを叶えた場合、喫茶店でのやり取りが音無さんとの最後のやり取りになってしまう。
個人的な感情でいけば、音無さんと離れ離れになるのは嫌だ。初めて大切だと思えた相手だから。音無さんの事が好きだから。
だけど、このままでは音無さんの声が戻るかどうか分からない。今日の音無さんの反応を見るに、医療的な方面から音無さんの声を戻す方法は存在しないらしいから、アリスを頼るしかない。
どちらかを選ぶなんて、僕には出来そうもないのに、選ばないといけない。覚悟をして来いとはこういうことだったのか。
「いくつか質問してもいいですか?」
「カズト君は、それを訊かなくてもいい立場だよね」
どうしても判断材料が欲しくて、二択を強いているアリスに助けを求める。
アリスはいつもの調子に戻っていて、恐怖よりも不満が大きくなってきた。
「記憶はどうなるんですか?」
「無くならないよ。記憶があってこその関係性だからね」
「どうやって、音無さんに声が戻ったのかを、確かめたらいいんですか?」
「文化祭の時だけ魔法を解いてあげる。でも、二人が出会ったら、唄ちゃんの声はまた失われて、二度と戻らなくなる」
ここまで問答して、どうするか決心で来た。いや後押しになったというところか。答えは初めから決まっていたのだから。
音無さんとの思い出がなくならないのであれば、僕は音無さんの声を取り戻す。これが僕の本当の願いを叶えてくれた音無さんに出来る、唯一の恩返しだと思うから。音無さんは僕の隣でくすぶっているべき人ではなく、音無さんだって声を取り戻したいはず。
たった数か月の付き合いの、たった一人の為に声が戻らないなんてことがあっていいはずない。
僕にとっては大切な人でも、音無さんにしてみたら沢山いる知り合いの一人にしかすぎないはずだから。僕が数か月前の生活に戻るだけで、丸く収まるのだ。
「願いを叶えてください」
「やっぱり止めますは無しだよ?」
「はい。分かってます。もう帰りますね」
決めてしまったら急にぽっかりと穴が開いたように気だるくなって、一人になりたくて立ち上がったのだけれど、「ちょっと待って」と引き留められる。
「何ですか。今はアリスの顔も見たくないんですけど」
「私が原因で、唄ちゃんと別れさせられたようなものだからね。正直なのはいいけど、話を聞いてくれないかな?」
「嫌です」
音無さんに会いたいと願ったのはこちらで、音無さんの声を治してほしいと願ったのもこちら。アリスに当たるのは見当違いだと言う事は重々承知なのだけれど、今は心がアリスを拒絶したがっている。
「出会った時に聞いてあげたお願いの代価に、私の話を聞いてね」
「今までちゃんと代価は払って来たと思うんですけど」
「『願いはいくつ聞いてくれるんですか?』の質問に答えてあげた代価はまだだよ」
質問するための代価は名前を教える事で払ったのではなかっただろうか。だが、思い返してみたら、質問したいと願う前に尋ねたような気もする。
「このまま帰ったらどうなりますか?」
「この数か月が無かった事になるかな。時間が戻るわけじゃなくて、唄ちゃんに関係する事を全部忘れて貰ったうえで、唄ちゃんの声は治らなくなる」
「ズルいですね」
「だって私は魔法使いだから」
笑みを見せるアリスを前に、諦めて椅子に座った。どうでもいい話なら聞き流してしまえばいいだろう。
「話って何ですか?」
「私の名前に関する事と、願いを叶えるルールの確認」
名前ってアリスではないかと思ったが、これは偽名か。
本名を教えてくれると言う事だろうが、ルールの確認も含め、何故今さらという気がしてならない。
「私の名前は『みゆみあやめ』。十二支のヒツジの字を蛇のように読ませて『未』。『ゆみ』はそのまま弓道で使う弓。反り返ったり、曲がったりしているものを弓なりって言ったりするよね。
『あやめ』に漢字はないんだけど、由来は花のアヤメ。花言葉は『善き便り』『吉報』」
自分の名前を説明するときに、分かりやすい漢字に置き換える事はよくある事だけれど、アリスのこれには不要だと思う情報が多々付随している。
だが端々の情報に、聞き覚えがあるのも事実で、僕はある事に思い当たってしまった。
「音無さんが書いた詩……」
6と8が混ざった世界のヒントは「十二」。十二支の六番目と八番目はそれぞれ「巳」と「未」。「弓なりの月」に「吉報」というのも詩の中にあった。もしもこれが偶然ではないとしたら、と考えている間にもアリスの話は続く。
「順番が前後するけど、鈴についても教えておこうかな。
鈴がオークの木で作られていて、ヤドリギと一緒に水に入れていたんだよね。
ドルイドに置いてヤドリギ、特にオークの木に出来たヤドリギは神聖なもので、万能薬の材料になるんだよ。頼むときにも説明したけど、ヤドリギを地面に落としちゃ駄目なのは、落ちた時点でヤドリギの力が地面に吸われてしまうから」
「つまり、タンブラーの中身が万能薬になっていたと言う事ですか?」
「だいぶ代用しているから、万能薬って程の効果はないけどね。でも、地中深くからくみ上げている温泉を持って来たのは良かったよ。
さっきは言う必要が無かったから言わなかったけど、この直った鈴も唄ちゃんの声を返してあげる代価の一つだったの気が付いてた?」
返してあげるという言い回しには違和感があるけれど、タンブラーの水が万能薬になっているのだとしたら、なおす何かが必要になり、なおったものが一つある。
「鈴は、音無さんの声だったんですね」
「察しが良いね」
「音無さんが妙に鈴に興味を持っていたのも、自分の声なんだから当然だった事ですか」
ここまで来て、気がついてはいけない事に気が付いたような妙な感覚に陥る。
思考は制止を聞かず、ひとりでにパズルを解き始めた。
「じゃあ、音無さんとアリスは、既に会っていたんですよね?」
「カズト君と会うよりもずっと前にね。
唄ちゃんも私と会っていた事は隠したかっただろうとは言え、彼女ほど願いなら必然的に私の所に来るんじゃないかな。カズト君ですら来られたんだから」
アリスの言い分はもっともだから、自分の至らなさを反省するとして、音無さんがアリスの所に来ていたのならば、という話になってくる。
「音無さんはここに来て、アリスに声が戻るように願ったんですよね?」
「うん。ここで、ルールの確認をしようか。一つ、願いは先に願った方が優先される」
つまり既に音無さんは此処に来て、願いを叶えて貰わなかったから、僕に順番がやって来たといえる。
アリスの言葉が潤滑油となって、思考がよりスムーズになってきた。
「もう一つ。まったく同じ願いをした場合は、全く同じものを要求する」
僕達の場合はどうなるのだろうか。代価は好きな人との関係だから、音無さんにも好きな人が居たと言う事だろうか。でも、結局僕と音無さんの関係がなくなったから、仮に音無さんが願いを叶えて貰ったとして、音無さんと僕の知らない誰かの関係が失われたところで全く同じものとは言い難い。
しかし、音無さんと僕の関係が失われたところで、音無さんから見たら、アリスが要求した好きな人との関係性では……。
「ああ……」
とんでもない事実に声が洩れる。難しい話ではない。音無さんも僕の事が好きだったのだ。好きになってくれていたのだ。
そして僕と声とを天秤にかけて、音無さんは僕を選んでくれた。だとしたら、僕は音無さんの想いを、踏みにじった事になる。
今日、音無さんが頑なに自分の声が戻らないと言っていたのは、声が戻らなくても僕と一緒に居たいと決意してくれたから。でも、全ては後の祭り。
僕は、音無さんの事を考えているつもりになって、自分自身を正当化していただけでしかなかったのだから、当然の帰結と言える。
「さっきの願いですけど」
「やっぱり無かった事にしては無理だよ」
「叶えるのは今すぐじゃなくて、明日にして貰っていいですか?」
「明日までにカズト君は何をするの?」
「自分の我儘を通しに行こうかと思いまして」
たった今、自分の意志に反することをして後悔したから、次は自分が望むことをやる。例えそれが、音無さんが望まない事だったとしても。
アリスはクスッと笑って「唄ちゃんと会ったり、連絡取ったりするのは駄目だよ」と条件を提示する。
「分かってます。それじゃあ、さようなら」
「うん、またね」
アリスが小さく手を振るが、もう此処に来ることも無いだろう。
建物を出て横尾さんに電話する。コールが一回、二回、三回……と回数を重ね、十回目に差し掛かったところで電話が通じた。
『アンタか、悪いけどアタシ今機嫌悪いんだけど』
「そうだろうなとは思っていました」
『分かってんなら何で……まあいい、何の用だ?』
「一つお願いがありまして。明日には音無さんの声が戻るはずなので、またバンドを組んでください」
『何適当な事言ってんだ? アタシが機嫌悪いのはな……』
「音無さんから『もう声は戻らない』みたいな連絡があったんですよね」
『分かってんなら、何か。アタシをおちょくってんのか?』
横尾さんとの話が電話越しで良かったと、自分の判断を褒めたい。
たぶん、目の前に居たら一発殴られていただろうし、迫力に負けて言いたい事も言えないまま話が終わっただろうから。
「もしも僕の話が嘘だったら、連絡ください。一発でも二発でも殴られます」
『いや、三発だな』
「それで構いません。でも、本当だったら僕との連絡はこれっきりにしてください」
言いたい事だけを言って電話を切る。最後に『おい』と大きな声も聞こえたけれど、もう会うことも無いだろう。
これで音無さんが一人になる事はないはず。例え音無さんが孤独を望んでも、横尾さんが引っ張って行ってくれるだろう。
後悔ばかりの一日だったけれど、やり残したことはない。
「唄ちゃん、さよなら」
強いていうなら、音無さんを名前で呼べなかった事くらいだろうか。
携帯に入っている、唄ちゃんの連絡先やメールも全部削除して、連絡も禁止する。
カズト君が出来るというのであれば、唄ちゃんの声は治してあげる」
アリスの声が右から左へと抜けていくのを、何とか阻止して、出された選択肢を天秤に乗せる。アリスの言葉を聞き間違えていなければ、願いを叶えた場合、喫茶店でのやり取りが音無さんとの最後のやり取りになってしまう。
個人的な感情でいけば、音無さんと離れ離れになるのは嫌だ。初めて大切だと思えた相手だから。音無さんの事が好きだから。
だけど、このままでは音無さんの声が戻るかどうか分からない。今日の音無さんの反応を見るに、医療的な方面から音無さんの声を戻す方法は存在しないらしいから、アリスを頼るしかない。
どちらかを選ぶなんて、僕には出来そうもないのに、選ばないといけない。覚悟をして来いとはこういうことだったのか。
「いくつか質問してもいいですか?」
「カズト君は、それを訊かなくてもいい立場だよね」
どうしても判断材料が欲しくて、二択を強いているアリスに助けを求める。
アリスはいつもの調子に戻っていて、恐怖よりも不満が大きくなってきた。
「記憶はどうなるんですか?」
「無くならないよ。記憶があってこその関係性だからね」
「どうやって、音無さんに声が戻ったのかを、確かめたらいいんですか?」
「文化祭の時だけ魔法を解いてあげる。でも、二人が出会ったら、唄ちゃんの声はまた失われて、二度と戻らなくなる」
ここまで問答して、どうするか決心で来た。いや後押しになったというところか。答えは初めから決まっていたのだから。
音無さんとの思い出がなくならないのであれば、僕は音無さんの声を取り戻す。これが僕の本当の願いを叶えてくれた音無さんに出来る、唯一の恩返しだと思うから。音無さんは僕の隣でくすぶっているべき人ではなく、音無さんだって声を取り戻したいはず。
たった数か月の付き合いの、たった一人の為に声が戻らないなんてことがあっていいはずない。
僕にとっては大切な人でも、音無さんにしてみたら沢山いる知り合いの一人にしかすぎないはずだから。僕が数か月前の生活に戻るだけで、丸く収まるのだ。
「願いを叶えてください」
「やっぱり止めますは無しだよ?」
「はい。分かってます。もう帰りますね」
決めてしまったら急にぽっかりと穴が開いたように気だるくなって、一人になりたくて立ち上がったのだけれど、「ちょっと待って」と引き留められる。
「何ですか。今はアリスの顔も見たくないんですけど」
「私が原因で、唄ちゃんと別れさせられたようなものだからね。正直なのはいいけど、話を聞いてくれないかな?」
「嫌です」
音無さんに会いたいと願ったのはこちらで、音無さんの声を治してほしいと願ったのもこちら。アリスに当たるのは見当違いだと言う事は重々承知なのだけれど、今は心がアリスを拒絶したがっている。
「出会った時に聞いてあげたお願いの代価に、私の話を聞いてね」
「今までちゃんと代価は払って来たと思うんですけど」
「『願いはいくつ聞いてくれるんですか?』の質問に答えてあげた代価はまだだよ」
質問するための代価は名前を教える事で払ったのではなかっただろうか。だが、思い返してみたら、質問したいと願う前に尋ねたような気もする。
「このまま帰ったらどうなりますか?」
「この数か月が無かった事になるかな。時間が戻るわけじゃなくて、唄ちゃんに関係する事を全部忘れて貰ったうえで、唄ちゃんの声は治らなくなる」
「ズルいですね」
「だって私は魔法使いだから」
笑みを見せるアリスを前に、諦めて椅子に座った。どうでもいい話なら聞き流してしまえばいいだろう。
「話って何ですか?」
「私の名前に関する事と、願いを叶えるルールの確認」
名前ってアリスではないかと思ったが、これは偽名か。
本名を教えてくれると言う事だろうが、ルールの確認も含め、何故今さらという気がしてならない。
「私の名前は『みゆみあやめ』。十二支のヒツジの字を蛇のように読ませて『未』。『ゆみ』はそのまま弓道で使う弓。反り返ったり、曲がったりしているものを弓なりって言ったりするよね。
『あやめ』に漢字はないんだけど、由来は花のアヤメ。花言葉は『善き便り』『吉報』」
自分の名前を説明するときに、分かりやすい漢字に置き換える事はよくある事だけれど、アリスのこれには不要だと思う情報が多々付随している。
だが端々の情報に、聞き覚えがあるのも事実で、僕はある事に思い当たってしまった。
「音無さんが書いた詩……」
6と8が混ざった世界のヒントは「十二」。十二支の六番目と八番目はそれぞれ「巳」と「未」。「弓なりの月」に「吉報」というのも詩の中にあった。もしもこれが偶然ではないとしたら、と考えている間にもアリスの話は続く。
「順番が前後するけど、鈴についても教えておこうかな。
鈴がオークの木で作られていて、ヤドリギと一緒に水に入れていたんだよね。
ドルイドに置いてヤドリギ、特にオークの木に出来たヤドリギは神聖なもので、万能薬の材料になるんだよ。頼むときにも説明したけど、ヤドリギを地面に落としちゃ駄目なのは、落ちた時点でヤドリギの力が地面に吸われてしまうから」
「つまり、タンブラーの中身が万能薬になっていたと言う事ですか?」
「だいぶ代用しているから、万能薬って程の効果はないけどね。でも、地中深くからくみ上げている温泉を持って来たのは良かったよ。
さっきは言う必要が無かったから言わなかったけど、この直った鈴も唄ちゃんの声を返してあげる代価の一つだったの気が付いてた?」
返してあげるという言い回しには違和感があるけれど、タンブラーの水が万能薬になっているのだとしたら、なおす何かが必要になり、なおったものが一つある。
「鈴は、音無さんの声だったんですね」
「察しが良いね」
「音無さんが妙に鈴に興味を持っていたのも、自分の声なんだから当然だった事ですか」
ここまで来て、気がついてはいけない事に気が付いたような妙な感覚に陥る。
思考は制止を聞かず、ひとりでにパズルを解き始めた。
「じゃあ、音無さんとアリスは、既に会っていたんですよね?」
「カズト君と会うよりもずっと前にね。
唄ちゃんも私と会っていた事は隠したかっただろうとは言え、彼女ほど願いなら必然的に私の所に来るんじゃないかな。カズト君ですら来られたんだから」
アリスの言い分はもっともだから、自分の至らなさを反省するとして、音無さんがアリスの所に来ていたのならば、という話になってくる。
「音無さんはここに来て、アリスに声が戻るように願ったんですよね?」
「うん。ここで、ルールの確認をしようか。一つ、願いは先に願った方が優先される」
つまり既に音無さんは此処に来て、願いを叶えて貰わなかったから、僕に順番がやって来たといえる。
アリスの言葉が潤滑油となって、思考がよりスムーズになってきた。
「もう一つ。まったく同じ願いをした場合は、全く同じものを要求する」
僕達の場合はどうなるのだろうか。代価は好きな人との関係だから、音無さんにも好きな人が居たと言う事だろうか。でも、結局僕と音無さんの関係がなくなったから、仮に音無さんが願いを叶えて貰ったとして、音無さんと僕の知らない誰かの関係が失われたところで全く同じものとは言い難い。
しかし、音無さんと僕の関係が失われたところで、音無さんから見たら、アリスが要求した好きな人との関係性では……。
「ああ……」
とんでもない事実に声が洩れる。難しい話ではない。音無さんも僕の事が好きだったのだ。好きになってくれていたのだ。
そして僕と声とを天秤にかけて、音無さんは僕を選んでくれた。だとしたら、僕は音無さんの想いを、踏みにじった事になる。
今日、音無さんが頑なに自分の声が戻らないと言っていたのは、声が戻らなくても僕と一緒に居たいと決意してくれたから。でも、全ては後の祭り。
僕は、音無さんの事を考えているつもりになって、自分自身を正当化していただけでしかなかったのだから、当然の帰結と言える。
「さっきの願いですけど」
「やっぱり無かった事にしては無理だよ」
「叶えるのは今すぐじゃなくて、明日にして貰っていいですか?」
「明日までにカズト君は何をするの?」
「自分の我儘を通しに行こうかと思いまして」
たった今、自分の意志に反することをして後悔したから、次は自分が望むことをやる。例えそれが、音無さんが望まない事だったとしても。
アリスはクスッと笑って「唄ちゃんと会ったり、連絡取ったりするのは駄目だよ」と条件を提示する。
「分かってます。それじゃあ、さようなら」
「うん、またね」
アリスが小さく手を振るが、もう此処に来ることも無いだろう。
建物を出て横尾さんに電話する。コールが一回、二回、三回……と回数を重ね、十回目に差し掛かったところで電話が通じた。
『アンタか、悪いけどアタシ今機嫌悪いんだけど』
「そうだろうなとは思っていました」
『分かってんなら何で……まあいい、何の用だ?』
「一つお願いがありまして。明日には音無さんの声が戻るはずなので、またバンドを組んでください」
『何適当な事言ってんだ? アタシが機嫌悪いのはな……』
「音無さんから『もう声は戻らない』みたいな連絡があったんですよね」
『分かってんなら、何か。アタシをおちょくってんのか?』
横尾さんとの話が電話越しで良かったと、自分の判断を褒めたい。
たぶん、目の前に居たら一発殴られていただろうし、迫力に負けて言いたい事も言えないまま話が終わっただろうから。
「もしも僕の話が嘘だったら、連絡ください。一発でも二発でも殴られます」
『いや、三発だな』
「それで構いません。でも、本当だったら僕との連絡はこれっきりにしてください」
言いたい事だけを言って電話を切る。最後に『おい』と大きな声も聞こえたけれど、もう会うことも無いだろう。
これで音無さんが一人になる事はないはず。例え音無さんが孤独を望んでも、横尾さんが引っ張って行ってくれるだろう。
後悔ばかりの一日だったけれど、やり残したことはない。
「唄ちゃん、さよなら」
強いていうなら、音無さんを名前で呼べなかった事くらいだろうか。