机上の言の葉
反射的に目を瞑り、薄目で様子を窺う。
アリスの細く白い手は真っ赤に染まり、指先から血が滴っている。
嫌なはずなのに目を離せなくて、血をグラスに降らせている様を始終記憶に焼き付けていた。
模様の溝までグラスがしっかり血に濡れた所で、今度はグラスの中の水を自分の傷口に零し始める。
大怪我とは無縁の人生を歩んできたが、あれほどの傷に水をかける事の痛さは想像できる。出来るからこそ、見ているこちらまで痛いような錯覚を覚えた。
グラスの中の水が無くなったところで、アリスが血と水をハンカチでぬぐう。
続いて見せられた腕には、多少血の跡があるものの、傷は跡すら残っていなかった。
「どう?」
「どう、と言われても、衝撃的過ぎて何が何だか……傷は治ったんですか?」
「派手だったでしょ?」
話の流れをぶった切った問い返しは、恐らく肯定なのだろう。
衝撃的と派手さを同じ土俵で見ていいのかはわからないが、確かに今まで見てきた魔法とは一線を隔すとは思う。
「派手でしたけど、何で急に自分の手を切ったんですか」
「カズト君から始まった話だったと思うんだけど。
まあ、ちゃんと魔法はあるんだって言う証明……かな。昨日の話が嘘じゃないって信頼を得る為でもあるよ。
お使いしてきてくれたから、私も誠意くらいは見せないとね。
あとは昨日カズト君が魔法見せて欲しいって願ったから、叶えてあげたって感じ」
確かに僕の中で魔法の存在は確固たるものになったけれど、他にも方法はあったのではないだろうか。
わざわざ、自分を傷つけてまで誠意を見せられても、こちらとしては困ってしまう。
「他にやりようはあったけど、話の流れとカズト君の反応見るには、これが一番かと思ったんだよね」
「こちらの考えを読まないでください。
今は大丈夫みたいですけど、痛くなかったんですか?」
「痛かったよ。でも、自分の血を使うって少なくないから、我慢は出来るかな」
「痛いなら、遊び半分にしないでください」
逆切れ気味に叱ったところ、アリスは優しく微笑んだ。
子供を見る母親のような表情に、ばつが悪くなる。
「遊び半分じゃないよ。でも、カズト君が怯えちゃうから控えるね」
「お見通しってことですね」
ムスッと拗ねたように返すのだけれど、どうにも同年代を相手にしているような気がしない。
僕の子供っぽさを差し引いても、アリスの余裕は年上を彷彿とさせる。
魔法使いなのだから、見た目以上に年を取っているのだろうか?
「アリスって何歳なんですか?」
「カズト君と一緒だよ。少なくとも同級生。それがどうかしたの?」
「魔法使いって話ですから、もしかして見た目と年齢が一致していないのかなと思いまして」
「確かに、何百年も生きている魔法使いもいるって話は聞くかな」
だとすると、アリスが大人っぽく見えるのは、魔法使いだからってことではないのか。
むしろ、同じ年齢なのに年上に見える人はたくさんいる。
やりたい事や信念もなく、何となく生きている僕からしたら、なおさら。
「世の中って広いんですね」
「私は、カズト君が世界を狭めているように見えるけどね」
「魔法使いの世界を知っている人って、そんなにいるんですか?」
「正確には知らないんだけど、極々一部だと思うよ」
だとするならば、僕が世界を狭めていることはないと思うのだけれど。
家にいるだけでも様々な情報が入ってくる現代、無理に外に行かなくてもある程度見聞を広げることは出来るだろう。
面白い話は聞けたと満足したところで、アリスが何処からか木製のキーホルダーのようなものを取り出して、こちらに差し出した。
受け取ってから観察する。
木でできた球体に紐がついているような形で、球体には切れ込みがあり、空洞になっているのが分かった。中にはまた小さい球体があるのかコロコロと転がっている感覚がある。
「木でできた、鈴……ですか?」
「見ての通りだよ。ある人のとても大切なものだから、大切に扱ってね」
「何か曰くがあるとか、形見とかですか?」
高価には見えないので尋ねてみたのだけれど、アリスは意味ありげに微笑むだけで肯定も否定もしない。
「これがどうかしたんですか?」
「願いを叶えてあげたからね。代価として預かっておいて」
「魔法を見たいって言った奴ですね」
願いを叶えたと言っていたし、分かってはいたけれど、押し売りっぽくも見える。
だが預かるだけなら難しい事でもないし、文句はない。
大切なものらしいし、家の貴重品入れの中にでも入れておこうか。
「出来るだけ身につけるようにしててね」
「持っていないと駄目なんですか? 家に置いておくとかは……」
「駄目」
「もしも、失くしたり壊れたりしたら、どうなるんですか?」
「元々の持ち主が悲しむってどころの話じゃなくなるかな」
穏やかなアリスの表情が何とも言えない迫力になる。
「とは言え、そんなに簡単に壊れるモノじゃないし、普通に鳴らしてみても大丈夫だよ」
アリスに促され軽く振ってみるが、コロコロと中で玉が転がる感覚がするだけで、想像していた音はならない。
「鳴らないんですけど、すでに壊れてないですか?」
「壊れていると言えば壊れているんだけど、大切に扱ってね」
モノに込められた想いは、壊れているからなくなるものでもないだろうから、僕が何かを言う義理はない。
ただ、あとからこれを理由に壊れたと言われても困ると言うだけだ。
「普段使っているカバンにぶら下げておいてもいいんですか?」
「そうしてくれたら、大丈夫かな」
大丈夫という言葉に何処か違和感があるのだけれど、駄目ではないので忘れないうちに、教科書の入った手提げかばんの持ち手部分にぶら下げた。
「それじゃあ、明日は一限目から授業がありますし、そろそろ帰ります」
「寝坊したら大変だもんね。彼女に会えなくなっちゃうし」
「居るってわかっているんだから、会えなくはないんじゃないですか?」
こちらの問いかけに、アリスは曖昧な笑顔だけで返す。
何故アリスが僕の一限の授業を知っているのかは、もう気にしても仕方がない気がする。
背を向けた所で、アリスから「そうだ」と声がかかった。
「急ぎじゃないけど、お使いはまだあるから時間がある時に此処に来てね」
「分かりましたけど、今じゃ駄目なんですか?」
「ちょっと説明しないといけない事があるから、時間かかるよ?」
「そう言う事なら、また来ます」
手を振るアリスに軽く頭を下げて、帰路に着いた。
僕の下宿はまさに無趣味の部屋、と言っても差支えないと思う。
フローリングの上に初めから敷かれてあった絨毯があり、その上にテーブルが乗っている。
ベッドには無地の枕とタオルケット。本棚代わりに買った三段ボックスには教科書ばかりが増えていく。
箪笥の上にテレビもあるが、スポーツとニュースくらいしか見ないし、テーブルの上にあるパソコンも活躍するのはレポートの作成時くらいか。
キッチンにある料理用具も最低限で、万能包丁が切ると言う役目をすべて担っている。
家族以外誰も入った事のない僕の城は、自分でも何やって過ごしているのか、分からなくなることがある。
しかし、不思議な事で何をしていなくても、時間は過ぎるのだ。
とは言え、今日はいつもと少し違う。
夕飯にと思い肉じゃがを作っている最中に、ふと気が付いた。
明日は初めて会う人に話しかけなければならない。しかも、異性に。
アリスの時には向こうから話しかけてくれた上に、こちらのペースに合わせてくれていたので話しやすかった。
だが、明日はそう言うわけにはいかない。
最悪どんな人なのか見ることが出来るだけでいいかと、後ろ向きな決意をして、その日は考える事を止めた。
アリスの細く白い手は真っ赤に染まり、指先から血が滴っている。
嫌なはずなのに目を離せなくて、血をグラスに降らせている様を始終記憶に焼き付けていた。
模様の溝までグラスがしっかり血に濡れた所で、今度はグラスの中の水を自分の傷口に零し始める。
大怪我とは無縁の人生を歩んできたが、あれほどの傷に水をかける事の痛さは想像できる。出来るからこそ、見ているこちらまで痛いような錯覚を覚えた。
グラスの中の水が無くなったところで、アリスが血と水をハンカチでぬぐう。
続いて見せられた腕には、多少血の跡があるものの、傷は跡すら残っていなかった。
「どう?」
「どう、と言われても、衝撃的過ぎて何が何だか……傷は治ったんですか?」
「派手だったでしょ?」
話の流れをぶった切った問い返しは、恐らく肯定なのだろう。
衝撃的と派手さを同じ土俵で見ていいのかはわからないが、確かに今まで見てきた魔法とは一線を隔すとは思う。
「派手でしたけど、何で急に自分の手を切ったんですか」
「カズト君から始まった話だったと思うんだけど。
まあ、ちゃんと魔法はあるんだって言う証明……かな。昨日の話が嘘じゃないって信頼を得る為でもあるよ。
お使いしてきてくれたから、私も誠意くらいは見せないとね。
あとは昨日カズト君が魔法見せて欲しいって願ったから、叶えてあげたって感じ」
確かに僕の中で魔法の存在は確固たるものになったけれど、他にも方法はあったのではないだろうか。
わざわざ、自分を傷つけてまで誠意を見せられても、こちらとしては困ってしまう。
「他にやりようはあったけど、話の流れとカズト君の反応見るには、これが一番かと思ったんだよね」
「こちらの考えを読まないでください。
今は大丈夫みたいですけど、痛くなかったんですか?」
「痛かったよ。でも、自分の血を使うって少なくないから、我慢は出来るかな」
「痛いなら、遊び半分にしないでください」
逆切れ気味に叱ったところ、アリスは優しく微笑んだ。
子供を見る母親のような表情に、ばつが悪くなる。
「遊び半分じゃないよ。でも、カズト君が怯えちゃうから控えるね」
「お見通しってことですね」
ムスッと拗ねたように返すのだけれど、どうにも同年代を相手にしているような気がしない。
僕の子供っぽさを差し引いても、アリスの余裕は年上を彷彿とさせる。
魔法使いなのだから、見た目以上に年を取っているのだろうか?
「アリスって何歳なんですか?」
「カズト君と一緒だよ。少なくとも同級生。それがどうかしたの?」
「魔法使いって話ですから、もしかして見た目と年齢が一致していないのかなと思いまして」
「確かに、何百年も生きている魔法使いもいるって話は聞くかな」
だとすると、アリスが大人っぽく見えるのは、魔法使いだからってことではないのか。
むしろ、同じ年齢なのに年上に見える人はたくさんいる。
やりたい事や信念もなく、何となく生きている僕からしたら、なおさら。
「世の中って広いんですね」
「私は、カズト君が世界を狭めているように見えるけどね」
「魔法使いの世界を知っている人って、そんなにいるんですか?」
「正確には知らないんだけど、極々一部だと思うよ」
だとするならば、僕が世界を狭めていることはないと思うのだけれど。
家にいるだけでも様々な情報が入ってくる現代、無理に外に行かなくてもある程度見聞を広げることは出来るだろう。
面白い話は聞けたと満足したところで、アリスが何処からか木製のキーホルダーのようなものを取り出して、こちらに差し出した。
受け取ってから観察する。
木でできた球体に紐がついているような形で、球体には切れ込みがあり、空洞になっているのが分かった。中にはまた小さい球体があるのかコロコロと転がっている感覚がある。
「木でできた、鈴……ですか?」
「見ての通りだよ。ある人のとても大切なものだから、大切に扱ってね」
「何か曰くがあるとか、形見とかですか?」
高価には見えないので尋ねてみたのだけれど、アリスは意味ありげに微笑むだけで肯定も否定もしない。
「これがどうかしたんですか?」
「願いを叶えてあげたからね。代価として預かっておいて」
「魔法を見たいって言った奴ですね」
願いを叶えたと言っていたし、分かってはいたけれど、押し売りっぽくも見える。
だが預かるだけなら難しい事でもないし、文句はない。
大切なものらしいし、家の貴重品入れの中にでも入れておこうか。
「出来るだけ身につけるようにしててね」
「持っていないと駄目なんですか? 家に置いておくとかは……」
「駄目」
「もしも、失くしたり壊れたりしたら、どうなるんですか?」
「元々の持ち主が悲しむってどころの話じゃなくなるかな」
穏やかなアリスの表情が何とも言えない迫力になる。
「とは言え、そんなに簡単に壊れるモノじゃないし、普通に鳴らしてみても大丈夫だよ」
アリスに促され軽く振ってみるが、コロコロと中で玉が転がる感覚がするだけで、想像していた音はならない。
「鳴らないんですけど、すでに壊れてないですか?」
「壊れていると言えば壊れているんだけど、大切に扱ってね」
モノに込められた想いは、壊れているからなくなるものでもないだろうから、僕が何かを言う義理はない。
ただ、あとからこれを理由に壊れたと言われても困ると言うだけだ。
「普段使っているカバンにぶら下げておいてもいいんですか?」
「そうしてくれたら、大丈夫かな」
大丈夫という言葉に何処か違和感があるのだけれど、駄目ではないので忘れないうちに、教科書の入った手提げかばんの持ち手部分にぶら下げた。
「それじゃあ、明日は一限目から授業がありますし、そろそろ帰ります」
「寝坊したら大変だもんね。彼女に会えなくなっちゃうし」
「居るってわかっているんだから、会えなくはないんじゃないですか?」
こちらの問いかけに、アリスは曖昧な笑顔だけで返す。
何故アリスが僕の一限の授業を知っているのかは、もう気にしても仕方がない気がする。
背を向けた所で、アリスから「そうだ」と声がかかった。
「急ぎじゃないけど、お使いはまだあるから時間がある時に此処に来てね」
「分かりましたけど、今じゃ駄目なんですか?」
「ちょっと説明しないといけない事があるから、時間かかるよ?」
「そう言う事なら、また来ます」
手を振るアリスに軽く頭を下げて、帰路に着いた。
僕の下宿はまさに無趣味の部屋、と言っても差支えないと思う。
フローリングの上に初めから敷かれてあった絨毯があり、その上にテーブルが乗っている。
ベッドには無地の枕とタオルケット。本棚代わりに買った三段ボックスには教科書ばかりが増えていく。
箪笥の上にテレビもあるが、スポーツとニュースくらいしか見ないし、テーブルの上にあるパソコンも活躍するのはレポートの作成時くらいか。
キッチンにある料理用具も最低限で、万能包丁が切ると言う役目をすべて担っている。
家族以外誰も入った事のない僕の城は、自分でも何やって過ごしているのか、分からなくなることがある。
しかし、不思議な事で何をしていなくても、時間は過ぎるのだ。
とは言え、今日はいつもと少し違う。
夕飯にと思い肉じゃがを作っている最中に、ふと気が付いた。
明日は初めて会う人に話しかけなければならない。しかも、異性に。
アリスの時には向こうから話しかけてくれた上に、こちらのペースに合わせてくれていたので話しやすかった。
だが、明日はそう言うわけにはいかない。
最悪どんな人なのか見ることが出来るだけでいいかと、後ろ向きな決意をして、その日は考える事を止めた。