龍の神に愛されて~龍神様が溺愛するのは、清き乙女~
序章
儀式
「今宵も、贄の儀を…」
ふいに、静かな老婆の声が不気味に響いた。
子の刻、青白い満月が空にまたたいている。
その光に照らされた鬱蒼と生い茂る森の中心に、揺れる水面に満月を映し出す水田。
今にも崩れそうなほど傷んだ板壁に藁葺き屋根の小屋がちらほらと並ぶ、名もなき田舎村がぽつんと存在する。
そんな田舎村に隣接された神社があった。
隣接された神社は寂れた村とは違い、赤い大きな鳥居に広い砂利の立派な境内。
その境内には、赤で塗られた手すりが目を引く、木造建ての大社が建っている。
その神社の名は、紫龍神社。
天候を司る神・龍神を奉るこの神社の存在は、山々に囲まれ、天災を受けやすいこの村には必要なものだ。
しかし、その龍神は気まぐれで、ときに激しい災害をもたらす。
その前に、神に巫女の魂を捧げて怒りを鎮めなければならない。
いつから始まった儀式か知らないが、誰も巫女を犠牲にすることに異議を唱えないことを考えると、随分昔からある因習なのだろう。
「巫女姫様、絶対にここから出ませぬよう…」
白髪頭を後ろで束ね、顔や手は皺だらけの腰の曲がった六十歳を越える老婆が静かに言う。
儀式を行うためにある、普段なら使われないこの部屋。
神社の最奥の開かずの間のさらに奥に存在している。
暗いそこに、独りで閉じ込められたのだ。
閉じ込められたのは、さらりと細くきしゃな肩を滑る、艶やかな茶色の髪。
少しだけ悲しみを帯びた同色の瞳。
巫女装束を着たその娘は、今年十八歳の葵だ。
葵は満月の夜、決められた子の刻にこの儀式をする。
それからはけして、逃れられない。
葵はそろりと顔を上げ、壁の小さな格子窓から覗く満月を見上げた。
「満月……」
三畳程しかない狭く暗い部屋に葵の悲しげな声が響いた。
何故、満月の子の刻に行うのかは知らない。
だだ、社の龍神が好むのだそうだ。
葵は、今までどれほどの魂を削って神に捧げてきただろう。
誰にも届かない叫び声を上げてきただろう。
たった十八年。
そんな月日の中に、葵はたくさんの自分の魂を主に捧げてきた。
この儀を葵が五歳の時に始め、その数年は辛かったのを今でも鮮明に覚えてる。
けれど、いつからだろうか。
やがて、その苦しみを飲み込む事が出来るようになっていた。
けして、痛みや苦しみがなくなったわけではない。
叫ばない強さを身に付けたのだ。
葵は胸の前で手を合わせ、ゆっくりと口を開いた。
「天つ宮事以て
天つ金木を本打切り末打断ちて」
祝詞を捧げる葵の体が淡い光を放ち始める。
龍神が、葵の魂を喰らい始めたのだ。
ずきりと、まるで体を引き裂かれるような激しい激痛が走る。
本音では、今すぐに止めたい。
けれど、ゆるされない。
村の存亡がかかっているから。
「千座の置座に置足はして
天つ菅麻を本刈断末刈切りて」
あぁ、息苦しい。
ひゅうひゅうとなる呼吸を聞きながら、葵は格子窓から夜空を見上げる。
そこに見えたのは、濡れたように艶めく漆黒の鱗に長い体。
金色の瞳に鋭い爪、背中に鬣のある龍がいる。
あの龍が、紫龍神社の主・繧霞だ。
唱える祝詞は形だけ。
魂を喰らうこの儀式を正当化させるためのものに過ぎないのだ。
「八針に取さきて
天つ祝詞の太祝詞事を宣れ……」
葵は祝詞を捧げながら、体を支えきれずにその場に力なく倒れた。
顔に掛かる髪すら払えない。
冷たい床に投げ出して、葵はゆっくりと瞼を下ろす。
しかし。
『捧げよ……もっと、もっとだ』
眠りにつこうとする葵に、冷ややかな声が降り注いだ。
それはまるで、鋭く尖った冷たい氷の刃のようで。
葵はびくりと体を震わせて、閉じかけていた瞼を押し上げた。
この社の主は、まだ魂を欲するのか。
これ以上、もう声が出ない。
起き上がる元気すらない。
そんな葵から、まだ奪おうとするのか。
葵の表情が苦しみに歪む。
『どうした、早くしろ』
繧霞の催促の声が葵の耳に届いた。
その声が悲しくて、悔しくて。
葵は、ぎゅっと強く唇を噛みしめた。
どうして自分だけ。
何故、自分だけがこんなにも苦しまなければならない。
その言葉が脳裏を過る。
自分と同い年の娘は綺麗な着物を着せられて。
偶然巡り会う青年と恋をして。
皆に盛大に祝福されて、嫁いでいく。
それなのに自分は。
祝福など、ありはしない。
こんな所で魂を削られ、倒れているだけだ。
「………自由になりたい……」
そんな悲痛な言葉を繧霞に聞こえないように呟く。
しかし、それは叶わない。
葵は死ぬまで繧霞に魂を捧げて生きるのだから。
そんな絶望的な現実に涙を一筋流して、葵は意識を失った。
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