龍の神に愛されて~龍神様が溺愛するのは、清き乙女~
伝わってくるのは、温かな皐月の手の感触。

握った葵の手を持ち上げて、皐月は顔を前へ傾けた。


「…………あ……の……」


皐月は握った手を顔に近づけて。

そっと優しく触れるように。

葵の手に、口づけを落とした。

しっとりと柔らかく、温かな感触。

それが皐月の唇だとわかるには、しばらく時間がかかった。

けれど、理解した頃にはすでに遅くて。

葵は顔を真っ赤にして俯いた。


「いつか、お前を父より奪ってみたい」


そう言って、皐月の手が葵からそっと離れた。

離れてしまった皐月の手の温もりが、少しだけ寂しい。

そう感じてしまった後で、葵は思わず首を傾げた。

どうして、そう感じるのだろう。

触れた温もりがあまりにも自然すぎて。

嫌だとは思えなかったのだ。

自分の知らない感情。

わけもわからずに持て余していると、皐月がゆっくりと音もなく立ち上がった。


「そろそろ、私は天界に戻らなければ……」


格子窓から吹く風に髪を靡かせて、皐月がそう呟いた。



『天界』


そこは、人の目では確認する事の出来ない、神の楽園だという。

雲の遥か上、この世とは別の空間に存在するそこは。

昼は眩しいほどの光で溢れ、夜は蒼白い光で闇を照らす。

入口には、朱色で塗られた大きな鳥居。

その先には、神が暮らす大小様々な社があるのだそうだ。


勿論、葵は見たことはない。


だが、そういう場所なのだと世話をしてくれている老婆から聞いた。

皐月は、そこに帰ると言っているのだ。

あぁ、帰ってしまうのか。

こんなにも誰かと一緒にいて、話をしたのは初めてだから。

離れてしまうのが寂しい。

そして、きっと。

離れてしまったら、二度と会えないかもしれない。

そう思うと、悲しい。


「また、会えますか……?」


葵は、自然とそう皐月に問いかけていた。

迷いもなく、口は紡がれた。

言いたい事、聞きたい事、沢山あったけど言葉に出来なかったはずなのに。

離れてしまうと思った瞬間、素直に口から溢れたのだ。


「…………葵?」


予想外だったのだろうか。

皐月は驚いたような顔を葵に向け、名前を呼んだ。


「会ってくれるのか、我が父の巫女姫よ」


しばらく驚いていた皐月だったが、ふいに柔らかな笑みで顔を綻ばせた。

囁かれた声は少しだけ甘く、優しい。

静かに喜ぶその姿を見て、葵は小さく頷いた。


会えるならば、勿論。


また、会いたい。

唯一、葵の目を見て話しかけてくれた相手。

また、こうして一緒に穏やかな時間を過ごして。

他愛ない話を出来たらといいに、なんて思う。

だからこそ、また会えるという確約が欲しい。


「あぁ、勿論だとも。
約束しよう。
私もまた、お前と話がしたいから」


皐月のその言葉に、葵の顔に笑顔が浮かんだ。

すごく、嬉しい。

生まれて初めて、誰かと約束を交わした。

そして、初めて自然と笑う事が出来た。


「お待ちしております、皐月様」


葵は、ゆっくりと体を起こして深々と頭を下げる。

そして、借りていた羽織りを皐月にそっと差し出した。

けれども。

それはそっと、葵の手を押し戻されてしまう。


「それはお前に譲る。
また明日、この時間にこの場所で会おう」


皐月は柔らかな笑みを葵に残し、開かずの扉をすり抜けるように外へと消える。

とても、神様らしい消え方だな。

などと感心しながら、葵はふいに自身の手元へ視線を戻す。

葵の腕に残っているのは、譲ると言って置いて行った皐月の薄紫色の羽織り。

葵はそれをそっと抱きしめ、顔を埋めた。

すると、優しい白梅の香りが葵の鼻腔を擽る。

皐月らしい、優しい香り。

その香りに包まれていると、何故か心が落ち着く。

こんなにも胸の奥が温かく、優しい気持ちになれたのは初めてだ。

今までずっと、繧霞の影に怯えていたのに。

今だけは、それは感じない。


「皐月様…」


次の夜は、何を話そうか。

その事を考えると、胸が高鳴る。

次の夜が楽しみで仕方がない。

葵は皐月の羽織を抱きしめたまま、格子窓から覗く満月を笑みの浮かぶ顔で見つめていた。




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