ごめんね、キミが好きです。~あと0.5ミリ、届かない想い~
「名前」

「あ?」

「名前、忘れられたのが最初だったよね」

 唐突にそう切り出したあたしの顔を、坂井君が見ている。

 彼は一瞬だけ不思議そうな顔をして、でもすぐに納得した表情になって、またばあちゃんの寝顔を見つめた。

「……あぁ、そうだったな」

「まさか、ばあちゃんに名前忘れられるなんて夢にも思ってなかったから。ものすごくショックだったの」

 自分が生まれたその日から、おそらく世界で一番愛してくれた人だと思う。

 親とは違う、誰も及ばぬ場所から、なんの見返りも求めずに深い愛情を惜し気もなく注ぎ続けてくれた人。

 いつも、どんなときでも、なにが起きてもなにがあっても、この人だけは味方であり続けてくれた。

『絶対』という、この世に存在する確証もないものを、たしかに示してくれたんだ。

 この人の愛だけは、絶対に裏切らないと。

「なのに、『あんたたち、誰?』ってさ。ばあちゃんにそう聞かれたとき、俺たち一緒に泣いたよな」

「うん。涙、止まんなかったね」

「ばあちゃんの大事なモン、あれからひとつひとつ、消えていったなあ」

 死んだじいちゃんと結婚した記念に植えた、大切なムクゲの樹の存在をぽっかりと忘れた。

 時間と場所が曖昧になり、家にいるのに『帰りたい』と言い出した。

 いったい、どこに帰るというのか。その場所すらも定かではないのに、口癖のようにただ、『帰りたい、帰りたい』と、泣きながら繰り返すばかり。

 帰る場所も、愛する家族も、目の前にあるというのに。
< 150 / 173 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop