どうしてほしいの、この僕に
 落ち着かない気分のまま朝を迎えた。カーテンを開け、まだほの暗い窓の外をぼんやりと眺める。冬の朝だというのに、カラフルなランニングウェアを身につけて軽快に走る男性が見えた。
「朝、走ると気持ちがいいよ。もし早起きできたら試してみてください」
 優輝の声が脳内で再生される。
 次に優輝が朝のランニングをできるのはいつだろう。
 男性の姿が見えなくなってもしばらく窓際で固まっていたが、私がいくら考えても仕方のないことだ。誰もいない部屋で「よし」と気合を入れ、出勤の準備を始めた。
 今日は——いや、これからずっと——友広くんとふたりきりにならないよう気をつけよう。
 そんなふうに身構えて出社したが、彼は今日から3日間出張だった。予定表のホワイトボード前で放心している私の横を、眉をひそめた課長が通り過ぎていく。
 なーんだ。よかった。
 そう思った瞬間、ほんの少し頬が緩む。なんだかこの感覚、変だ。脇腹の辺りがこそばゆく、思い切りかきむしりたいような落ち着かない心地。
 少々乱暴に腰を撫で、腰痛をいたわるふりをしながら席に戻る。実際まだ少し腰も痛むのです。
 それからの私は弾むような気持ちで仕事に励んだ。

 定時で退社した私の目に高木さんの黒い車が飛び込んでくる。昨日と同じ場所だ。急ぎ足で近づくと、助手席の窓が開き、高木さんが「おつかれさま」と労ってくれた。
 ぺこりと頭を下げてから助手席に乗る。すると目の前にサングラスとマスクが差し出された。
「なんですか、これ?」
「これから病院に行くよ」
「え、でも、これは?」
「紗莉さんから借りた。そしてこれから君は優輝の従妹だから」
「いとこ!?」
 高木さんの手からサングラスとマスクを受け取り、それらを交互に眺めた。
「つまり従妹のふりをすればいいんですね」
「ふりなんかじゃだめさ。君は優輝の従妹」
 私は「はい」と優等生みたいに答えて、サングラスとマスクを着用した。レンズ部分がやけに大きく、私の鼻がひくいせいなのかずり落ちてくるものの、おかげさまで顔のほとんどが隠れてしまう。完璧な不審者の出来上がりだ。
「これだけ顔が隠れたら、別に親戚のふりなんかしなくてもいいのでは?」
「未莉ちゃん、ふりなんかじゃない。君は優輝の従妹」
 高木さんはしつこく同じ言葉を繰り返した。大事なことだから三回も言ったのだろう。
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