どうしてほしいの、この僕に
「参考にさせていただきます」
 そう答えると姉は悪戯っ子のように笑った。

 病院へ着くころには雲行きがあやしくなっていた。タクシーを降りた私の頬を雨粒が打つ。
 姉とともに小走りで玄関へ向かう。ガラスの自動ドアを通り抜けると、姉はおもむろに眼鏡を取り出した。私も慌ててバッグに手をつっこみ、変装グッズを探す。
「そのサングラス、似合わないわね」
 サングラスとマスクを装着した私に向かって、姉は率直な意見をぶつけてきた。
 どちらかを外せば不審者の疑いは多少晴れるかもしれない。しかしせっかく装着したものを外すのは、なんだか癪だ。姉の言葉は聞こえなかったことにして廊下を進む。
 優輝のいる特別室のドアを開けると、驚いたことにベッドは空で、ベッドサイドに積んであった書籍タワーも片付けられ、室内はすっきりとしている。
「いらっしゃい」
 声の主は松葉杖を支えにして窓辺で佇んでいた。
 ええっ、もう立てるの!?
 私は思わずサングラスを外し、彼の頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺めまわした。
 その視線が鬱陶しいのか、優輝がため息交じりに解説を始める。
「一昨日、手術で骨を固定したから、あとはひたすらリハビリするだけ。予定では退院は来週だけど、僕としては今週中に退院したいと思っています」
 え、今週中!? 
 退院するっていうことは、つまり家に戻ってくると——。
「あら、順調ね。よかったわ」
 姉はスマートな動作で来客用の椅子に腰かけた。そして私を見てクスッと笑う。
「未莉ったら、あなたのことを心配しすぎて倒れたのよ」
 ちょ、ちょっと、何を言い出すんだ!
 目を剥いて抗議しようとしたが、その前に優輝がしおらしく「すみません」と言った。
 いや、あやまらないで。私のほうこそあやまってもあやまっても足りないくらいなんだから。
 しかしここで私は内心「おや」と思う。優輝の視線はひたと姉に向けられているが、それはどこか危険な光を放っていた。
 心がヒヤッとするのとほぼ同時に優輝が次の言葉を発した。
「紗莉さん、僕は知りませんでした」
 姉は少し眉を上げる。
「ん? 何かしら?」
「招待状ですよ。未莉宛に誰かが送った招待状」
 ——オーディションへの招待状のこと!
 そうか、姉は優輝に招待状の存在を報告していなかったんだ。
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