どうしてほしいの、この僕に
 ——なんだか楽しいな。
 ふたりで同じ台本を読み、同じ世界を共有する。ただ書かれているセリフを交互に口にするだけなのに、次第に私たちだけが現実から切り離された別の世界に生きているような不思議な感覚になる。
 どうしてだろう。触れてもいないのに、優輝がすごく近くにいる気がする。
 だからこのとき、彼の紳士面を引っ剥がそうと思っていたことも忘れてしまうくらい私は満たされていた。

 そして実際に撮影が始まると、プライベートのことなど考えている余裕は皆無になった。
 毎朝、起床すると急いで朝食を作り、食べ終わるとすぐに外出準備。高木さんが迎えに来る優輝とは違い、私は撮影スタジオまで電車を利用するので一足先に出た。
 姉も都合のつく限り撮影現場へ付き添ってくれた。
 そのおかげで私は落ち着いて撮影に臨むことができた。もちろん優輝との読み合わせの練習で不安が減少したのも大きい。
 けれども実際にはディレクターの意図が十分に理解できなかったり、理解できても要求に応えられない瞬間も少なくない。しかも落ち込んでいる暇さえない。即座に反応する瞬発力がないと、私ひとりのせいで現場を停滞させてしまうのだ。
 頭は混乱しているが、とにかく動くしかない。だけどうまくやろうと気負うと、気持ちが先走って全然うまくいかない。
 そんなとき、不意に優輝がセリフを忘れたり、言い間違えたりする。
 すると現場に張りつめていた緊張が一気に緩み、私の肩にのしかかる重責も一瞬ふわりと軽くなる。
 優輝と私は設定上親しくない間柄だから、撮影の合間もあまり会話を交わすことはない。
 それでも助けてもらったときは、彼のそばへ行き、礼を言った。優輝は決まって私を涼しい目でみると、自分がセリフを間違えたことをあやまる。共演者やスタッフは私たちの関係が少しぎこちないことに微塵も疑問を持たず、むしろ温かい目で見守っているようだった。
 帰宅するとヘトヘトに疲れていて、台本を読みながら眠ってしまい、優輝に揺り起こされて渋々ベッドへ移動する夜が続いた。
「かなりキツそうだな」
 撮影に入ってちょうど1週間たった朝、優輝は寝ぼけ眼で食パンをほおばる私を見ながら心配そうな顔をした。
「らいじょーぶれふよ」
「日本語を話せ」
「ちょっと眠いけどまだまだ全然大丈夫!」
「そうか? 顔、やつれてるけど」
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