どうしてほしいの、この僕に
 しかし事務所にいたのは事務員の伊藤さんだけだった。30代の伊藤さんはいつも地味な格好をしているけれども仕事は完ぺきで、所属タレントやモデルのスケジュールがすべて頭に入っている。
 その伊藤さんが私に向かって淡々と告げた。
「社長は先週から約1ヶ月間、新しいクライアントとのお仕事で地方へ出張です。たまにこちらへ戻っているようですが、事務所に顔を出すことはないかもしれませんね」
「そうですか」
 少し落胆しながら、なにげなく伊藤さんの机の上を見て、おや、と思う。私の目に留まったのはケータイだ。私が持っているものより画面がかなり大きい。そしてそれを、つい最近どこかで見た記憶がある。
 そうだ。優輝の部屋で朝ごはんを食べていたとき、高木さんがローテーブルの上に画面の大きなケータイを置いていたんだ。それと同じ機種みたい。
 気がつけば伊藤さんが私に訝しげな視線を向けていた。
「あ、いや、ケータイの画面が大きいなーと思って。使いやすいですか?」
 慌てて言い訳すると、伊藤さんは笑顔になった。
「ええ。とても見やすいですよ。社長が選んでくれたんです」
「ということは仕事用のケータイですか」
「はい。プライベートのケータイはもう少しコンパクトなサイズです」
「なるほど」
 ということは高木さんのも仕事用のケータイなんだろうか、なんてどうでもいいことを考える私。
 それにしても仕事を早退して姉の事務所へやって来たのに、結局姉の所在はつかめず、柚鈴も1週間後まで仕事がびっしりだということがわかっただけ、とは。昨晩からのことを姉か柚鈴に話したかったけど、仕事を定時で上がれる私とは違って、ふたりとも簡単にはつかまらない。わかっていたつもりだけど、落胆は想像以上に大きかった。
 とりあえず優輝が戻ってくるまであの部屋の留守番をすると決めたのだから、その約束は守ろうと思う。
 でも、と事務所を出て帰る道すがら、私はずっと優輝のことを考えていた。
 メンタルが弱いというのは本当なのだろうか。
 確かに爽やかで健康的な高木さんと比べたら、体格においても性質においても、優輝のほうが繊細に見える。だけどひ弱な印象はないし、私とふたりきりのときの優輝は少々、いやかなり俺様っぽい気がした。
 ひとつだけ引っかかるのは、私の姉との関係だ。
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