どうしてほしいの、この僕に
 食堂からの長い廊下を渡り終え、階段をのぼる。優輝と私の間には沈黙が横たわった。余計なことを言ってしまったかもしれない、と一段一段踏みしめながら私は思う。
「こちらです」
 階段をのぼりきったところで、私は優輝の顔を見た。彼も私をまっすぐに見つめてくる。
 防火扉の脇を通って机の並ぶ空間へ足を踏み入れた。突然歓声が上がり、社員たちの熱狂的な眼差しが優輝に集まる。私は一歩後方へ下がった。
「やるな。さすが未莉ちゃん」
 高木さんが小声で耳打ちしてきた。
「なんのことですか?」
「俺には優輝を言い負かすことはできないからさ」
 主に女性社員たちから握手攻めに遭っている優輝を見ながら、さっき一瞬だけ彼の頬にさした影の意味を考える。
「はいはい、ここで立ち止まらないで!」
 後ろから上層部のスーツ陣が優輝の周りに群がる社員たちをかき分けて出てきた。
「柴田さん、このまま止まらずに君の席までご案内しなさい」
「はい」
 上司の命令に返事をして、優輝を先導するように通路を進む。軽く頭を下げたり、手を振ったりしながら、愛想よく挨拶する優輝に、社員たちはひっきりなしに声をかけた。
 立ち止まらずに進むと、あっという間につきあたりのフロアに到着した。
「あそこが私の席です」
 私は少し手前で立ち止まり、空席を指差した。
「へぇ、座ってみてもいい?」
「どうぞ」
 優輝が私の席へ近づくと、友広くんが顔を上げた。そしてゆっくり立ち上がる。
「いらっしゃい。すごい人気ですね、さすがは守岡さん」
 頑なに私を無視していた人とは思えぬ柔らかい笑顔で友広くんは優輝に対峙した。
「お邪魔します」
 優輝は短くそう言うと、私の椅子を引いて腰をおろした。それから友広くんへ視線を戻す。
「あなたはどんなお仕事をされているのですか?」
「主にカメラの取扱説明書を作っています」
「それは責任重大なお仕事ですね」
「ほかに『柴田さんの乱れた襟を直してあげる』のも僕の大事な仕事ですよ。責任重大でしょう?」
 ガタッと椅子を後ろにのけるようにして優輝が立ち上がった。
「ほう。その仕事なら僕にもできそうだ」
 ちょっ、なんで急に不穏な空気になるわけ?
 私は慌てて優輝のそばに駆け寄り、ふたりの会話に割り込んだ。
「あの、次に行きますので……」
「どういうこと?」
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