伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約

ニセ婚約者という名の救世主

翌日、いつもより遅い、すっかり陽が空の頂点に昇った時間帯に、クレアは店に着いた。

床を掃き、窓を拭き、商品をチェックし、開店の準備をする。

けれど、心はここにあらずといった感じで、体は浮遊感に包まれていた。




昨夜は、ライルと庭園を一周すると大広間には戻らず、彼がクレアの乗ってきた馬車まで、直接送ってくれた。

誰にも何も告げずに馬車に戻ってきたことに、不安を募らせていると、もうすぐお開きになる時間だ、とライルが言った。

「クレア嬢は気分が優れないから先に戻っている、とアディンセル伯爵夫人には、従者を介して伝えておくよ。コールドウィン侯爵夫妻には、俺からも挨拶をしておこう。何も心配はいらないよ」

優美に微笑まれ、そう言われると、不思議と安心感が湧いてくる。

「また会えるのを楽しみにしているよ」

クレアの手の甲に軽くキスをすると、彼は屋敷に戻っていった。


帰りの馬車に揺られながら、ライルの唇が触れた手の甲に、そっと自分の手を重ねた。

彼にとっては、そんなことはただの挨拶と同じだ。分かっているのに、これまで男性にそんな風に扱われたことのないクレアは、天にも舞い上がる気持ちだった。

もし散歩の後、大広間に戻ったらトシャック氏と鉢合わせてしまっていたかもしれない。あんな目に遭わされて、平常心を保っていられる自信もなかった。

ライルはそんな彼女を気遣って、誰に会うこともなく、馬車まで連れてきてくれたのだろう。もしかしたら、散歩に誘われたのも、すぐに大広間に戻りたくない事情を抱えた彼女を一人、庭に残しておくことが出来なかった彼の優しさだったのかもしれない。

最後までライルは紳士だった、と思う。

もう二度と会うことは、無いけれど。


< 30 / 248 >

この作品をシェア

pagetop