伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「すみません、まだ準備中なんです」

カウンターの中でしゃがんでいたクレアは立ち上がりながら、そう言うと、入ってきた人物の姿を見て、「あっ……」と小さく声を上げた。

「……お義母様……」

そこには、アディンセル伯爵夫人が立っていたのだ。

夫人が店に来るのは初めてだ。

店内をぐるりと見渡し、カウンターの奥で固まっているクレアの姿を見付けると、

「クレア!」

怒気をはらんだ声と共に、彼女の方に向かってカツカツと靴の音を響かせ、近付いてきた。

いつもクレアは夫人には冷たい態度を取られていたが、怒鳴られたのは初めてだった。いつもと違う様子に驚いて、クレアは無意識のうちに後ずさりして奥の続き部屋に入り込んだ。

そんな彼女を追い詰めるかのように、夫人も同じ場所に入る。

この部屋の狭さと半分物置となっている状況に、いつもの夫人なら、嫌味の一つや二つ、飛ばしてきたであろうが、どうやら今はそんな余裕を持ち合わせていないらしい。

「クレア、とんでもないことをしてくれたわね!」

「……何をですか?」

「トシャックさんの頬を叩いたんですって!?」

「えっ?」

夫人からその男の名前を聞くとは思っていなかったクレアは、大きく目を見張った。

「違います!叩いたんじゃありません!」

「お黙りなさい! さっき、トシャックさんが怒って家に来たのよ! 礼儀もなってない娘に恥をかかされた、って!」


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