伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約

「……お断りします……！ もし、駄目だとおっしゃるなら、私はあの家を出ます……！」

アディンセル家の娘だから、こんな理不尽な要求を強いられるのだ。だったら家を出て、元の庶民に戻るまでた。遅かれ早かれ、いずれはそうなっていただろうし、クレアはその時が訪れてもいいよう、いつでも覚悟は決めていた。

クレアの毅然とした態度に激昂するかと思いきや、意外にも夫人は冷静な様子だった。

「そう、だったら仕方ないわ。この店を潰すしかないわね」

「なっ……！」

平然と放たれた物騒な物言いに、クレアはゾッとした。

「帰る場所があるから、そんな強気になれるのね。こんな吹けば飛ぶような店、悪評判を広めて客足を途絶えさせてしまえば、すぐに無くなるわ」

「……ひどい……！」

「中身は粗野だけど、あなたがアディンセル家の血を引いているのは事実よ。トシャックさんが駄目なら、他の人を探すまでだわ。貴族と親族になりたい成金は、今の世の中、増えてるの。逃げても無駄よ。あの女の悲しむ顔を見られないのが残念ねぇ」

「……っ」

夫人から冷たい視線を受けて、クレアは絶句した。あの女とは自分の母のことだ、と彼女は直感した。

夫人はクレアを道具にすることで、同時に彼女の母に対して復讐を果たすつもりでいるのだ。そんなおぞましい感情にとり憑かれた人間は何をしでかすか分からない。

逃げたところで、どんな手段を使ってでもクレアを探し出し、連れ戻すだろう。

何か、回避出来る方法はないものか。せめて逃げる準備を整える時間稼ぎになるような。

大切な店を手放してしまう結果になるかもしれないのは心苦しいが、そうなったら、また取り戻せるように一から出直そう。

焦ったクレアは、次の瞬間、自分でも驚くような発言をしていた。

「無理です……私、結婚を約束した人がいるんです……！」