伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「そんなに緊張しなくていいんだよ。今日からここが君の家だ」

彼女の横に座り、ライルは優しい眼差しで距離を縮めてくる。

「私の……?」

「そうだよ。結婚すれば、君がこの家の女主人だ」

……あっ!

部屋の美しい内装に気を取られていたクレアの耳が、『結婚』と『女主人』という言葉を捕らえる。その瞬間、彼女は夢から覚め、その言葉の重みに先の見えない、深く大きな穴に落ちてしまいそうになった。

同時に、馬車の中でずっと考えていたことを思い出す。

「ライル様……」

クレアは握られた手をそっと引っ込めた。

「今日はちゃんとお話をしたいと思って来ました」

サッと立ち上がると、ライルの向かい側のソファーに回り、そこに座り直した。

横にいると緊張するどころか、その甘い笑顔と緑翠の瞳に魅了され、何も言えなくなってしまいそうになる。ローテーブルの幅は広く、落ち着いて話をするにはほどよい距離だ。

「改めてお礼を申し上げます。私のついた嘘を怒らず、話を合わせて下さったこと、とても感謝してます。ライル様が来て下さらなかったら、望まない結婚を強要されていました」

クレアは深く頭を下げる。

「嘘をついたのは私です。ご迷惑をおかけしてしまい、反省しています。でも、いくら成り行きだからといって、本気でライル様の婚約者にして頂こうとは思っていません」

頭を上げて、ライルの顔を真っ直ぐに見る。

「ずっと疑問だったんです。恋人とフリはあの場限りで良かったはずなのに、本当に縁談の話が来るとは思っていませんでした。まだ会って間もないのに」

「世の中の縁談とは大抵そんなものだよ。結婚当日まで、相手の顔を知らないこともある」

ライルはずっと変わらず隙のない笑顔をクレアに向けてくる。

うっ……、と思わず心を奪われそうになるが、一旦、壁の絵画に目を向けることで、平常心を取り戻した。

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