この想いが届くまで
 手当を終え、消毒液などの道具が入った小箱を片付けに行った西崎が戻ってくる。
「一応、明日医者に行ってみてもらえよ」
「ありがとうございました。色々と……その、ご迷惑をおかけしました。すみません」
 未央は包帯のまかれた膝の上でぎゅっと手を握りしめた。距離を置いて西崎もソファに座った。
「なぜ逃げた。さっき」
「……!」
「さっきの二人だろ? 君の好きだった男と、友達だった女」
 さっきとは、バーの店先でばったり遠藤と理沙に鉢合わせた時のことだ。西崎はすべてお見通しのようだ。 
「だから、さっきもバーで話しましたけど、私はもういいんです。関わりたくな―」
「ま俺も、奪い返せと言いながら、君をあの場からさらってしまった」
 目を合わせると、西崎は体をこちらに向け、ソファの背もたれに肘をついた。
「どうだった? 久しぶりに会った彼」
「どうって……相変わらず」
 相変わらず、優しかった。転んだ自分に一番にかけよって手を差し伸べてくれる。変わらない。あぁやって、何度も助けてくれた。いつも明るく優しい笑顔で包んでくれた。あの手を掴めるのは、自分だけだと思っていた。
 目頭が熱くなる。
 涙をこらえながら俯いていると、すぐ近くに西崎の気配を感じた。自分に伸びてきた手が触れる寸前に未央は止めた。
「やめてください」
 未央は顔をあげた。
「私が最終面接で話した転職理由ですけど、きっかけは失恋になっちゃったかもしれないけど……でもあれも嘘じゃないんです。がむしゃらにがんばってみたいんです。だからもう……その、色恋沙汰に振り回されるのは」
「そうさ、仕事に私情、特に男女の問題を持ち込むのはよくない。それもあるのかな、うちは社内恋愛禁止なんだよ。前に役員が社員と不倫して大問題になったことがあるらしい」
「社内恋愛禁止……ほんとうだったんだ……」
「ま、ゼロにするのは難しいと思うけど。バレなきゃいいんじゃない?」
「しゃ、社長がそんなこと言っていいんですか?」
 西崎は視線を伏せてふっと薄い笑みを浮かべた。
「あの、じゃ、じゃあ……社長がホモっていうのは……?」
「……君はそう思う?」
 未央は無言のまま首を振った。仏頂面から一変して西崎は笑みを見せた。
「あの夜は。あの時はまだ俺も君もただの男と女だった。だから、セーフだろ?」
「……はい」
 西崎の軽い物言いに思わず笑みがこぼれた。西崎の前ではじめて見せた笑顔は、実年齢よりもずっと下に見える無邪気なものだった。
「槙村さん……だっけ。これからよろしく」
 差し出された手に、少し戸惑ってからゆっくりと手を添えた。そしてじっと目を合わせ口角をあげる。
「はい、社長。よろしくお願いします!」
 西崎はそのまま未央の手を引き立ち上がらせる。
「歩けそうか? 送るよ」
「えっ、でも」
「いいって。その脚のまま放置はできないだろ。朝までここにいるつもりか?」
「ま、まさか、そんなつもりは……!」
 手が離れて、気恥ずかしさを感じてその手を耳にあて髪をかける。「行くぞ」と部屋を出て行こうとする西崎の背中を見て慌て、一歩足を踏み出したとき痛みが走ったがなんとか歩ける痛みだった。
「ま、待ってください」
 先に部屋を出て行ってしまった西崎をおぼつかない足元で追った。

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