この想いが届くまで
自宅マンション前に着き車が停車する。
あっという間に着いてしまった。結局、聞いてみたいことの一つも聞けず、実のある話はなにもできなかった。礼を言って降りなきゃ。そう思ったと同時に西崎がハザードランプを点滅させた。
「このマンション……住んで長いの?」
「はい。大学卒業してからずっと住んでいるので……手狭になってきて何度か引越しも考えたんですけど、近くに友人が住んでいたり居心地も良くて結局そのまま……はい。今の職場も全然通える距離ですし」
五階建ての単身者のワンルームマンション。三階の角部屋で日当たりもいい。築年数は古いが外装も内装も未央が入居前にフルリフォーム済で綺麗だ。
「セキュリティは大丈夫なのか? 前も思ったけど夜はこの辺り暗いし」
「一応オートロックつきですし……危険な思いをしたことは一度もないので大丈夫だと思います」
「そっか」
会話が途切れ今度こそ降りようと思ったその時、西崎が「あっ」と声を上げた。
「思い出した。君、前に俺の家に来た時リップクリーム落とさなかったか?」
「リップクリーム? さぁ……」
予想通り未央自身はまったく心当たりがないようだ。あの日は気が動転してばかりだったので無理もない。
「それ本当に私のですか?」
「君以外、あの家にきた女性いないんだけど」
「そ、そうですか……ポケットに入れていたのが落ちたのかも……?」
捨ててください。
そう一言告げれば終わる話だ。それなのになぜかその一言が言えない。
「まぁ、確認もできたし必要ないなら捨てておくけど」
「は、はい、捨ててください。お手間おかけしますが……」
「手間でもなんでもないよ。というか、いつまでそんなよそよそしいんだ?」
あぁ、これで今度こそ本当に。元々繋ぐものはなにもない。今までも、今日みたいな偶然もそう何度も続かない。
「それじゃあ。今日はありがとうございました」
口角を上げて、未央は今日はじめて西崎の前でいつも通りの笑みを作ることができた。
「連絡先、聞いていい?」
「……はい?」
突然の西崎の予想もしなかった申し出に未央の表情から笑みが消えた。
「いや、また次会ったら聞こうって決めてたんだ」
「……」
「そもそも、これだけ会ってるのに知らないってことがおかしくないか?」
「……正気ですか?」
「え? なにが?」
へんなやつ、そう言って気の抜けた笑みを見せる西崎をぼんやり見つめながら、こんな笑い方もするんだ、と思った。もっと知りたい、もっと色々な表情を見てみたい、そう思った。
かすかに震える手でバッグからスマホを取り出すと、また一つ信じられないような言葉が響いた。
「あと名前。未央って呼んでいい?」
手にとったスマホがぽろりと膝の上に落ちた。
「いつまでも君って言うのもなんだか……だからと言って槙村さんも違うと思う」
「違わないです。私槙村なんで。……それに。あんまり、よくないと思います……」
「どうして? 前にも言ったと思うけど今は仕事じゃないのだからそんなにかしこまらなくてもいい。仕事で関わることがあればそりゃその時は俺も態度は改めるけど」
「でっでも……」
「だから未央も“社長“はやめるように」
「む、無理です、無理ですそれは……っ! そうなってしまうともう“様“一択しかありません……っ」
「却下」
クスっと笑う気配を感じながら未央は深く俯く。なんで? なんで? と頭の中でクエスチョンマークばかりが並ぶ。
「なんでだろうな。もっとたくさん、未央のこと知りたいって思うんだ」
未央は目を見開いてごくりと息を飲み込んだ。視線を感じてそろっと顔を上げて隣を見る。ぱちっと視線が合うとこの日はじめて逸らさなかった。逸らすことができなかった。すると「やっとちゃんとこっち見てくれた」と西崎は嬉しそうに笑うのだ。その少し幼く見える無邪気な笑顔に、また一つ新しい表情を見ることが出来て未央もまた嬉しいと思った。
あっという間に着いてしまった。結局、聞いてみたいことの一つも聞けず、実のある話はなにもできなかった。礼を言って降りなきゃ。そう思ったと同時に西崎がハザードランプを点滅させた。
「このマンション……住んで長いの?」
「はい。大学卒業してからずっと住んでいるので……手狭になってきて何度か引越しも考えたんですけど、近くに友人が住んでいたり居心地も良くて結局そのまま……はい。今の職場も全然通える距離ですし」
五階建ての単身者のワンルームマンション。三階の角部屋で日当たりもいい。築年数は古いが外装も内装も未央が入居前にフルリフォーム済で綺麗だ。
「セキュリティは大丈夫なのか? 前も思ったけど夜はこの辺り暗いし」
「一応オートロックつきですし……危険な思いをしたことは一度もないので大丈夫だと思います」
「そっか」
会話が途切れ今度こそ降りようと思ったその時、西崎が「あっ」と声を上げた。
「思い出した。君、前に俺の家に来た時リップクリーム落とさなかったか?」
「リップクリーム? さぁ……」
予想通り未央自身はまったく心当たりがないようだ。あの日は気が動転してばかりだったので無理もない。
「それ本当に私のですか?」
「君以外、あの家にきた女性いないんだけど」
「そ、そうですか……ポケットに入れていたのが落ちたのかも……?」
捨ててください。
そう一言告げれば終わる話だ。それなのになぜかその一言が言えない。
「まぁ、確認もできたし必要ないなら捨てておくけど」
「は、はい、捨ててください。お手間おかけしますが……」
「手間でもなんでもないよ。というか、いつまでそんなよそよそしいんだ?」
あぁ、これで今度こそ本当に。元々繋ぐものはなにもない。今までも、今日みたいな偶然もそう何度も続かない。
「それじゃあ。今日はありがとうございました」
口角を上げて、未央は今日はじめて西崎の前でいつも通りの笑みを作ることができた。
「連絡先、聞いていい?」
「……はい?」
突然の西崎の予想もしなかった申し出に未央の表情から笑みが消えた。
「いや、また次会ったら聞こうって決めてたんだ」
「……」
「そもそも、これだけ会ってるのに知らないってことがおかしくないか?」
「……正気ですか?」
「え? なにが?」
へんなやつ、そう言って気の抜けた笑みを見せる西崎をぼんやり見つめながら、こんな笑い方もするんだ、と思った。もっと知りたい、もっと色々な表情を見てみたい、そう思った。
かすかに震える手でバッグからスマホを取り出すと、また一つ信じられないような言葉が響いた。
「あと名前。未央って呼んでいい?」
手にとったスマホがぽろりと膝の上に落ちた。
「いつまでも君って言うのもなんだか……だからと言って槙村さんも違うと思う」
「違わないです。私槙村なんで。……それに。あんまり、よくないと思います……」
「どうして? 前にも言ったと思うけど今は仕事じゃないのだからそんなにかしこまらなくてもいい。仕事で関わることがあればそりゃその時は俺も態度は改めるけど」
「でっでも……」
「だから未央も“社長“はやめるように」
「む、無理です、無理ですそれは……っ! そうなってしまうともう“様“一択しかありません……っ」
「却下」
クスっと笑う気配を感じながら未央は深く俯く。なんで? なんで? と頭の中でクエスチョンマークばかりが並ぶ。
「なんでだろうな。もっとたくさん、未央のこと知りたいって思うんだ」
未央は目を見開いてごくりと息を飲み込んだ。視線を感じてそろっと顔を上げて隣を見る。ぱちっと視線が合うとこの日はじめて逸らさなかった。逸らすことができなかった。すると「やっとちゃんとこっち見てくれた」と西崎は嬉しそうに笑うのだ。その少し幼く見える無邪気な笑顔に、また一つ新しい表情を見ることが出来て未央もまた嬉しいと思った。