愛と音の花束を
何度か電車を乗り換え、駅を降りると、昔ながらの商店街を整備し直した雰囲気の通りに出た。

少し歩き、「ここ」と椎名が立ち止まった。
ドアには、小さく『salon Adagietto』とある。
アダジェット。
アダージョ(ゆるやかに)より少し速く、という速度記号。
私はマーラーの交響曲第5番第4楽章を思い出す。

だけど、ブラインドは降りていて、営業している様子ではない。

「休みじゃないの?」

「うん。基本午後からの営業だから」

「え?」

「言ったでしょ、友達だって。こんなに商売っ気ないのに人気店だから、なかなかあいてなくて、午前に友達特権で予約入れました」

「そんな、申し訳ない」

彼は「いーのいーの」と言いながらスマホで電話をかけ、「俺。今着いた」とだけ言って電話を切った。

ほどなくしてドアが開き、「どうぞ」と小さな男性の声がすると、椎名は私に先に入るよう示した。

おそるおそる足を踏み入れると、

「いらっしゃいませ」

元気な女性の声が私達を迎えてくれた。

モカ色の、いかにもサロンの制服っぽいユニホームを着た小柄な女性。
同い年くらいだろうか。

「今日は突然悪いけどよろしく」

椎名の声に、女性が反応した。

「他ならぬ椎名さんのお願いなら喜んで。ね、店長」

店長と呼ばれた男性は、何やらモゴモゴ呟いた。
くせっ毛なのかパーマなのか、クルフワッとした長い前髪が顔の上半分を覆っているし、終始うつむき加減だし、顔がよく見えない。接客業それでいいのか、と同じような職業柄お節介にも思ってしまう。
彼が、『ちょっと変わってる』という椎名の友達なのか。

「じゃあ結花ちゃん、また後でね」

椎名は一足先に、店長と一緒に奥の部屋へと入っていった。
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