愛と音の花束を
「そういえば、秋の定演、乗り番は一曲だけにしてほしいって言ってたけど、ソリストやること前提に言ったの?」

「まあね。退路は絶ったうえで今日に挑みたかったから」

……清々しい風が吹いて。

それは、一瞬にして、彼をとても遠くへ連れていってしまった気がした。

遠い、音楽の世界。
私が“何となく好き”というだけでいる音楽の世界とは違う、人生を賭けたことのある人にしか入れない世界。

苦いものが心の中に広がる。

この男と付き合うということは、たまにこの苦さとも折り合いをつけていかなくてはならないんだ。

「……結花?」

大丈夫。世界の違う男とはこれまでも付き合ってきた。暁の頭の中なんてさっぱり理解できなかったし。
何より、この男を誰かに取られることの方が、耐えられない。
その痛みに比べたら、苦さなんて、ちっぽけなものだ。

……これも、遠回りの功名。

「……かっこよすぎでしょ」

私は鍵盤を見つめながら言う。

「私、ピアノ曲は滅多にきかないけど、あの日、式場できいたピアノは、すごくいいなぁ、って思って、仕事に集中できなかった」

那智のまとう空気が一瞬にして熱くなった。
遠くに感じたピアニストが、私のすぐそばに戻ってきたのがわかった。

吸い寄せられるように、彼の方を向くと。

那智の瞳には、バラードで感じたような情熱的な炎が宿っていて。

私の体温が、じわじわ上がっていく。

大丈夫。
戻ってきてくれるなら、いつでも送り出せる。

「他に質問があるかきこうと思ったけど、後で布団の中でゆっくりきく」

言葉とともに顔が近づいてきて。

ふわりと唇を塞がれた。

甘く、繊細な唇の動きに、
身体も心もじわじわと溶かされていく。

ああ、もう。
どうしよう。
大好き。

あろうことか、耐えられなくなったのは私の方が先で。
彼の肩に腕をかけながら、彼の唇を舐めた。

意思表示は通じたようで、
私の腰と背中に手を回して身体を密着させ、
キスを深めてくれた。

今までとは違う、
情熱的でありながら、
ギリギリ荒々しくはない、
あのバラードのような、深いキス。

この男は、キスの引き出しも豊富らしい。






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