嘘つきの世界で、たったひとつの希望。
「何してるんだよ、家の前で」


聞き慣れた声。
でもいつもと全く違う声が耳に入ってきた。

そっと前を向けば眉間にシワを寄せたお兄ちゃんと、驚いた顔の男の人がいた。

私は正輝に抱きしめられている事を忘れて。
呆然とお兄ちゃんを見つめた。

こんなに怖い顔を真正面から見たのは初めてだった。
でも、最近は、偶にだけど、この表情をよく見る。
口を開く事も忘れて、ただ固まっていればお兄ちゃんの手が私の腕を掴んだ。

それと同時に背中から感じていた温もりが消えていく。
寂しいのに、今はそれを考えられないほど焦っていた。


「お兄……ちゃん……?」


掴まれた腕がいやに熱い。
容赦なく籠められる力に徐々に顔が歪んでいく。
でも、『痛い』なんて言える雰囲気ではなかった。


「何をしているんだって聞いているんだ」


それは私に向けられた言葉ではなかった。
だって、お兄ちゃんの視線は正輝の方に向いていたのだから。
それは分かっていたけれど、この雰囲気を何とかしようと口を開く。


「えっとこれは……」

「和葉には聞いていない。今は黙っていろ」

「あっ……」


お兄ちゃんのこんなに低い声を聞いたのは初めてで。
ピクリと肩が揺れた。

身内に“怖い”なんて感情を持つなんておかしいけれど。
ただ単に恐怖しか私にはなかった。
喋れずにいた私。
相変わらず驚いた顔をする男の人。

そして睨み合う様に顔を見合わせるお兄ちゃんと正輝。
とは言っても、正輝は普通にお兄ちゃんを見ているだけだけど。

只ならぬ雰囲気なのに。
キミは何の躊躇いもなく口を開いた。


「なにって……抱きしめていただけですけど」


それは事実だった。
だけど、明らかに怒っている人の前でこんなに正直に言える人が他にいるだろうか?
誰だって1度はいい訳や否定をするはずだ。
それなのに、正輝の中にはそんな考えすらなくて。
やっぱりキミは真っ直ぐな人なのだと思い知らされた。
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