声にできない“アイシテル”
 学会から帰ってきたお兄ちゃんが病室に顔を出したので、車で送ってもらうことに。


 今日の出来事を話すと、驚くこともなく説明してくれる。

「記憶がなくなっても、体で覚えたことは残っているんだよ。
 記憶喪失になったピアニストが、ピアノを前にしたらいきなり曲を弾きだしたって例もあるからね。
 だから、桜井さんが読唇術を出来ても不思議じゃない」

“そうなんだ・・・”




 今のアキ君の中に“私”の記憶はなくても、“私と過ごした時間”が存在している。

 それは彼が『私を愛していた』という証拠でもあると思う。


 救われた気がした。

―――大丈夫。
   笑ってさよならできる。


 アキ君がくれた愛情が、前に進む力をくれる。

 いつまでも想い出にとらわれて動けなかった私の背中を押してくれる。


 だけど、それは彼を忘れるということじゃない。

 どんなに努力したって、アキ君のことは忘れることなんで出来ない。


 ただ、過去に縛られるのではなく。

 過去は過去として、私の胸の中にしまっておけばいい。

 彼に愛されていたと言う事実は、無理に消すことなんてない。



 ずっと胸の奥でくすぶっていた感情が、少しずつ落ち着いてゆく。

―――ここでアキ君に会えてよかった。



 彼と別れ以来、ようやく私も心の底から笑えそうだ。
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