さよなら、世界


 とても懐かしくて、なんだか切ない。それなのに不思議と、気持ちが落ち着く。マリのそばにいると、ときどきそういう感覚に襲われる。

 彼女の表情は忙しない。笑ったり怒ったり、こちらに目を離す隙を与えないくらいよく動く。

「……信じて、ないよ」

 私はつぶやく。彼女に聞こえないように、息を吐き出すついでみたいに。

 世界は変わったのだ。私は、誰のことも信じていない。

 顔は、眉や目や唇、筋肉の細かな動きで、いろんな表情をつくりだす。言葉や数字で測ることのできない「人の心」を直接映し出す、唯一の人体組織だと思う。

 母の罪を知り、これまで信じていた世界に裏切られ、私は人を信じるかどうかの目安ともいえる人間の感情が、読めなくなった。そのこと自体には、納得できる。

 でもそれなら、倉田遊馬や渡辺マリコの顔が見えるのは、どういうわけなのだろう。表情のない世界で、ふたりの顔がわかることに何の意味があるのだろう。

「なあに、そんなに人の顔覗き込んで。そんなに私がかわいい?」

 軽口をたたく彼女の顔をじっと見る。肌はつやつやだし、目も鼻も口も正しい位置に正しく並んでいる。たしかに可愛い。それを素直に口にしてしまう潔さは、人によっては鼻につくだろうけど、彼女が冗談のつもりで言っているのがわかるから嫌な感じはしない。マリはごく普通の女子高校生だ。

 顔のない世界で、顔があるだけ。彼女自身に、特におかしなところはない。

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