さよなら、世界


「あ」

 視界が揺らぐ。驚いて退いた私は、階段から足を踏み外していた。着地した体勢の倉田遊馬が、スローモーションで遠ざかる。

「ミズホちゃん!」

 手がのばされるのが見えた。その手をつかもうと伸ばした指先は、空を切る。天井が見えて、背中に衝撃が走った。

 自分の身体がばらばらになったような気がした。手も足もどんな動きをしているのかわからないまま、ただ視界がぐるぐる回って、あちこちぶつけて、最終的に顔面に痛みが走った。

「いったぁ……」

 気がついたら、うつ伏せに倒れ込んでいた。

「ミズホちゃん! 大丈夫?」

 肩を抱き起こされ、遊馬の顔が目に飛び込んでくる。間近に見てもかわいい顔立ちだった。羨ましいくらいはっきりとした二重まぶたで、黒目が大きい。瞳の中に自分を見つけて、私ははっと顔をふせる。

 倉田遊馬が声を震わせた。

「み、ミズホちゃん……血が」

「え」

 ぼたぼたと、生あたたかいものが鼻から落ちて制服を汚していた。口の中に、鉄錆の味が広がる。

「え、え?」

 両手で鼻を押さえると、手がまたたくまに赤く染まる。

「え、ティ、ティッシュ」

 軽くパニックになりながらポケットを探ったけれど、ハンカチしか見つからない。ひとまずそれで鼻を押さえ、私は後ろを振り返る。

「マリちゃん、ティッシュもって」

 言葉の途中で身体が浮いた。すぐ横に遊馬の険しい表情がある。

「えっ」

 横抱きで抱えられ、身体が硬直した。手とかたい胸の感触が制服越しに伝わって、全身が熱くなる。

 私を抱えたまま、倉田遊馬は廊下を走り出した。見咎められることも恐れず、脇目も振らずに廊下を突っ切って角を曲がる。

< 50 / 159 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop