さよなら、世界
「身の程もわきまえず、よりによって男と帰ってくるなんて」
静かな声が、かえって恐ろしい。身体がすくんで、床に這いつくばったまま動けなかった。目の前に、理香子さんの赤く塗られた足の爪があらわれる。その足元から、フローリングが凍りついていくようだった。
「はしたない子。やっぱりあんたは悪魔の子なんだわ。汚らわしい」
吐き捨てられ、襟首を掴まれて引っ張り起こされた。
「来なさい」
強引に腕を引かれてドアに身体をぶつけた。そんなことはお構いなしで、理香子さんは奥の自室に進んでいく。痛いほど腕を握られ、恐怖がこみ上げる。歯が震えて、うまく言葉にならない。
「ごめ、なさ」
「どうもわかってないみたいだから、あんたに教えてあげるわ」
部屋のなかは異様な臭いが立ち込めていた。アルコールとタバコと体臭と、そのほかのいろんなものが混じった空気にむせそうになる。黄ばんだ壁に私を押し付けると、理香子さんは真正面から私を覗き込んだ。
川崎七都を思わせる二重まぶたの目が、ぎょろっと見開かれる。何をされるのかと、恐ろしさに目を伏せたら、「こっちを見ろ!」と怒鳴られた。
おずおずと、顔を上げる。そして自分がこれまでまともに理香子さんと目を合わせてこなかったことに気づいた。
理香子さんの顔には、違和感があった。
彼女の目は、よく見ると左右で虹彩の色合いが違っていた。ぱっと見ただけではわからない、ごくわずかな違いだ。それに右目だけ、どことなく動きがかたい。ふいに、彼女は人差し指で右目の下まぶたを引っ張った。