さよなら、世界
「でもね、ごく数人だけ、顔がわかる人がいたの。表情が消えた世界で、ごくごく一部の人だけが笑ったり泣いたり、自在に表情をつくってる。それってどういうことだと思う?」
マリがちらりと私を見る。
「それって、精神的な話? 女の子の心が疲れてて、そういう症状が出てるってこと?」
「うん。たぶん」
「じゃあ、原因があるわけだ」
彼女の言葉で、私の頭も絡まった糸がひとつひとつ解かれていくように整理されていく。人に話したことで、自分のなかにわだかまっていたものが薄れたような気がした。たとえ問いかけに対する答えを得られなくても、言葉にするだけで気持ちは楽になるのかもしれない。
「女の子自身は、そうなった原因が大切な人に裏切られたせいだと思ってる」
私が知っている母は、私が知らない過去を背負っていた。私には優しかったけど、外では違う一面を見せていたのかもしれない。私が見抜けなかっただけで、母は、本当は――
『あの女は悪魔よ!』
理香子さんの恐ろしい怒鳴り声が、傷ついた人間の悲痛な叫びに変わる。
「目に見えるものだけが真実とは限らない」
凛とした声に思わず振り返った。マリは遠くを見るようにつぶやく。
「一番大切なことは、目に見えない」
「え……」
彼女ははっとしたように表情を緩めた。
「あ、受け売りっていうか。どっかで聞いた言葉なんだけど、何かに悩んだときに思い返すと結構的を射てるんだよね」
彼女の言葉を頭のなかで繰り返す。
見たものだけが真実とは限らないのなら、私が見てきた母は偽りの姿で、理香子さんの言う悪魔のような母が本来の姿だったということだろうか。それとも、私が見た理香子さんの姿も、真実ではないのか。
こんなふうに考えていると、すべての物事を信じられなくなりそうだ。何が嘘で、何が本当なのかわからなくなる。