さよなら、世界


* * *

 七月に入ってから気温の高い日が続いていたけれど、今晩はとりわけ蒸し暑い。リビングにいるあいだはエアコンが効いていたけれど、私の部屋には冷房も扇風機もなかった。かといって、リビングのソファで寝たら理香子さんに見つかったときが恐い。

 部屋にひとつだけの小さな窓を開け、風を通すためにドアも開きっぱなしにした。廊下から丸見えだけど、蒸し風呂に一晩中いるよりはいい。

 ベッドに座って携帯をいじっていたら、階段をのぼる足音が聞こえ、部屋の前を七都が通りかかった。一瞬、目が合う。袖のないシャツにハーフパンツ姿で、お風呂に入っていたのか肩からタオルをかけていた。

 すいっと目線が外れ、ドアの前を通り過ぎていく。

「あ……」

 思わず、ベッドを立った。廊下に顔を出すと、七都が自室のドアノブに手をかけたままこちらを見る。意志の強そうな眉がわずかに寄った。

「なに?」

「あ、の」

 訊きたいことはたくさんある。それなのに、言葉は喉につかえて出てこなかった。生まれた瞬間から慣れ親しんできたはずの日本語が、単語も文法もぐちゃぐちゃになって頭の中を回っているみたいだ。今の自分に必要なものを、きちんと選んで取り出すことができない。

 そもそも、七都は私の話を聞いてくれるのだろうか。

「なんだよ」

 なんでもない、と言いかけて、私は唇を噛んだ。

 七都の目がまっすぐ注がれて、私は気づく。

 そういえば、いつからか彼の視線や言葉から、冷たさが抜け落ちている気がする。睨みつけられることはあっても、突き放すような物言いはずいぶん聞いていなかった。優しくはないけれど、刺すような雰囲気がなくなっている。

 いたずらっぽく笑う遊馬の顔が思い浮かんで、私はぎゅっと手を握りしめた。

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