銀木犀が咲く頃に
「一緒の高校に行かないかって⋯⋯月峯高校に二人で行かないかってこと」
「⋯⋯⋯⋯」
正直人と関わることにはもうほとほと疲れていて高校に行く気はなかった。
確かに母からは星波学園に行けと耳にタコができるくらい言われているけれど心のうちでは『高校になど行かない』という結論にも近い答えがでていた。
「澪」
強い声音で名前を呼ばれて苦しくなる。

そうだよね。慧斗は優しいから。だから、形にしなくちゃダメだよね。

「あのさ、慧斗、私なんか放っといていいんだよ」
ううん、違う。こんな言い方じゃダメだ。
「⋯⋯私のことなんて放っといてよ!もう⋯⋯もう、うんざりなの。本当は学校なんて行きたくないのに慧斗が『大丈夫だ』っていうと心配かけたくないから行かなきゃって思っちゃうの!もう、やめて。お願いだから、放っておいて⋯⋯」
こんなの嘘だよ。本当は、慧斗のおかげで学校に来れていて感謝しているし見放されたくないって思ってる。
でも、こうまで言わなきゃ心優しい慧斗は私を気にしてしまうから。だから⋯⋯。
「嫌だ」
「え?」
強い声音で放たれたその言葉に思わず振り返る。
「だから、私は」
「やーっとこっち向いたな」
私が話している途中でそういうと二カリと歯をみせて笑い、私の頭をくしゃくしゃにする慧斗。
「ちょっ、やめてよ」
「やだね」
「もういい加減⋯⋯」
「嫌だ」
最初は乱暴ながら撫でるように頭上で動いていた手が次第に私の頭を押さえつけるようになる。
「ちょっと、やめてよ」
押さえつけてくる手にこもった力に危機感を覚えてそういうもその手をどかしてはくれない。
「絶対に嫌だ」
先程までと打って変わった強い声音にあることを察すると精一杯の優しい声で
「大丈夫、私はここに、慧斗の目の前にいるよ。どこにも行かないから」
という。
「あ⋯⋯」
私の頭を押さえつけていた手から力が抜けてだらんと空に落ちる。
「ご、ごめん、澪」
「ううん、いいよ。私こそ酷い言い方してごめんね」


慧斗の母は昔、子育てのストレスから虐待をはたらき終いにはそのことが自分を追い詰め慧斗がまだ幼い頃に亡くなった。
慧斗はそのことがあってから、誰かが自分の元を離れることをひどく嫌い怖がるようになったのだけど、さっきの慧斗はまさにその状態だった。

「月峰⋯⋯いこうよ」
そんな言葉に私は、私の心は、なんて答えればいいの?
「⋯⋯うん」
結局、こうなるんだ。
どう足掻いても私達は互いに欠けた者同士。欠けた部分を補い合うようにそばにいる。
お互いがお互いを必要としていてお互いがいないとダメなんだ。

歪な関係。そんな言葉が脳裏をふとよぎって自嘲気味な笑みがこぼれた。
確かにそのとおり。これは歪そのものだ。

そんな歪な関係がいつしか歪な恋へと変化するなんて、まだ知らない話。




「だから、ここはこう。慧斗、癖になってるから気をつけた方がいいよ」
「あー、なるほどねー。澪先生流石っす。気をつけまっす」
「ちょっと、あんまりふざけないで真剣にやってよ」
「へーい」
適当に返事をするとペンでコツコツとテーブルを叩きながら思案顔になる慧斗。
日曜日の昼過ぎ。私達は慧斗の家のリビングで受験に向けた勉強をやっていた。
月峰高校は星波学園より偏差値は低いもののそれでも充分レベルの高い高校。
幼い頃から英才教育だ、塾だ、家庭教師だ、と勉強のことに関して常にとやかく言われてきた私はまだいいとして、慧斗は勉強が大の苦手だった。だから今こうして勉強会を開いているわけだが、私には何故月峰に行きたいのかがずっと疑問だった。
しかし、それもつい先程解決した。
『父さんにこれ以上迷惑かけれない。だから、月峰にいって国公立の大学目指していいとこに就職して恩返しがしたい』
そんな言葉を慧斗は躊躇うことなく言った。
その時の慧斗の表情からは、父にまで見捨てられたくない、置いてかないで、そんな感情が滲みでていた。
そんな理由があるにしろ、ないにしろ、私とは正反対の慧斗はすごいと思った。
私は慧斗が言ったこと全てをしたくなくて逃げたくてしょうがないから。
「よっし、出来たぞ、澪」
「どれどれ⋯⋯」
慧斗が差し出したノートを自分の元へ持ってくると先程間違えていた問題に目を通す。
青ペンで書かれたそれは難しい問題ながらたった一回の添削だけで正答が導きだされていた。
「すごい、慧斗。正解だよ」
「へへっ。どーよ、俺様の本気」
「これが本気なら最初から本気でやりなさいよね」

それにしても慧斗はすごいな。
教え始めた時から、一度アドバイスを聞けばすぐにそれを自分の頭で噛み砕いて答えを導きだしている。
それってすごいことだ。私が何度も解いた問題も慧斗は一度や二度で簡単に理解してしまう。
今まで『大嫌い』の後ろ側に隠れていただけで慧斗は勉強が得意なのだろう。

けれどそれは一度の失敗をクヨクヨ悩まずに突き進む慧斗らしさとも言えた。

私はたった一度や二度たまたま聞いた陰口や、普段生活している中で感じる冷たくバカにしたような視線だけで臆病になる。逃げようとする。
今まで何度も思ったことだけれど⋯⋯
「慧斗みたくなれたらなあ⋯⋯」
「澪みたくなれたらなあ⋯⋯」
私が言ったのと全く同じ、心の中を読んでいるようなタイミングでそういうものだから驚いて声もでない。
「俺もさー思うよ、澪みたくなりてえって。あっ、別に、JKになりたいってわけじゃないからな」
ふざけた調子でそういうから驚きも忘れて笑ってしまう。
「JKになりたいって理由だったら今以上に慧斗のこと軽蔑するよ」
「えっ!?俺ってば澪に軽蔑されてたのっ!?ショック⋯⋯」
なんて言って体を小刻みに痙攣させる慧斗には呆れてため息が出てしまう。
「勝手にやってなさいよ」
「ひ、ひどい、澪先生!置いて行かないでよー」
「ちょっとトイレ。付いて来ないでよ」
「あ、そうなの?へへ、ごめんよ澪先生〜」

やっぱり、こうして慧斗と過ごす時間は楽しい。
こんな時がずっと続いて、明日なんて来なければいいのに⋯⋯。トイレへ向かいながらそんなことを思った。




月曜日。
いつものように少し遅刻しながらも学校に来る。
私が慧斗に「慧斗が大丈夫っていうと学校に来ないと、と思ってしまう」と怒鳴り散らしたあれ以来、慧斗はそういったメールを寄越さなくなった。
だけど、それでも、慧斗と共に月峰に行くと決めた以上むざむざ欠席するわけにはいかなかった。

掃除の時間。
私の班が担当している音楽室へと向かう。掃除さえ終われば帰れる。もう少し、頑張ろう。
音楽室につくといつものように黒板の元へと向かう。
大抵の女子は掃除の時間、ほうきを持ってお喋りをするし、男子は男子で雑巾を投げたりしてふざけあったりしている。だから、黒板を綺麗にするのが一番安全な行為なのだった。
音楽室特有の二段になっている黒板。下の黒板を綺麗にすると上の黒板を下へ持ってくる。
そうして何の気なしに上の黒板を下ろせばそこには衝撃的な文字が書かれていた。
『千﨑澪しね』
なにこれ⋯⋯私のこと?誰が?⋯⋯。
色々な言葉が頭の中を回りながら目の前が真っ白になった。
思わずその場にへたりこむと後ろから女子の笑い声や、男子のざわざわした話し声が聞こえてくる。


それから掃除の時間が終わっても、私は一人その場に座り込んでいた。
黒板に書かれた文字を消すこともその事実を受け入れることも出来なくて、でも泣いたら負けだと思ったからギュッと唇を噛み締めていた。
「澪⋯⋯?」
そんな声がしてそちらを振り返ると音楽室の戸のガラス窓からこちらを見つめる慧斗の姿があった。
その姿を確認すると私の中の強がる心がふいに壊れて涙がほろりとこぼれ落ちた。
こちらに駆け寄ってきた慧斗は黒板の文字を確認すると黒板消しを手に持った。
「⋯⋯慧斗?⋯⋯」
慧斗は何も言わずに黒板に書かれたその文字を消していった。その手の甲に血管が浮き出るくらい力を入れて何度も何度も力強く黒板の文字を消した。文字が消えても慧斗は何度も黒板を消した。
「慧斗、もう行かないとホームルームが⋯⋯」
「許せねえ」
「え?」
「こんなの、絶対許せねえよ。死ぬってことがどんだけ重みのあることか分かってねえやつが一番大嫌いだ」
私は怒りで体を震わす彼を初めて見た。
「慧斗、大丈夫だよ」
優しい声でそういうと慧斗がこちらを振り返った。その瞳には一杯の涙が溢れていた。
「だってよ、こんなの許せねえよ」
「なんで慧斗が泣くのよ」
鼻水を垂らしながらボロボロ泣く慧斗がおかしくて気づくと笑っていた。
慧斗は私の目の前に膝をつくと真っ直ぐに私を見据えた。
「⋯⋯⋯⋯」
「ぷふっ。あはは、その顔反則」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で変顔するから思わず声をあげて笑ってしまう。

やっぱり私には慧斗が必要だ。そして、それは多分慧斗も同じ。

それがたとえ歪でも、私達にとってこの関係はなくてはならない大切なもの。
そのことに改めて気づくと私は涙を拭いて微笑んだ。
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