少年たちと少女≒蝶と蜘蛛
覚えていないなら、いい
陸上部の朝練がある日、透也はいつも秘密の抜け道を使う。学校の裏山に何百本という藪椿が自然のトンネルを作っていて、それをくぐっていくと校舎の裏手に出るのだ。少し遠回りになるが、透也はこの道がとても気に入っていた。
高い梢には白や赤の花が咲き乱れ、道のあちこちに椿の花が散らばっている。夢の中のように美しい光景だ。
透也はそのトンネルの下を通りながら、随分前に、杏里が椿は嫌いだと言っていたことを思い出した。なぜ嫌いなのかと尋ねたら、花ごと地面に落ちるからまるで首を切られたようで気味が悪いと言っていた。
「そんなことないのにな」
透也はつぶやき、落ちていた赤い花を一つ拾った。そして、その花の色が血のようだとも言っていたことを思い出した。それを聞いてから、この道を杏里に教えることを躊躇っている。
杏里に、隠しごとが一つできてしまった後ろめたさはあるものの、自分だけの秘密ができたような気がして少し、嬉しかった。
木が密集しているせいで弱く光が差し込む頭上を見上げた。聞こえてくるのは鳥の声と葉ずれの音。足元に、椿が作るまだらの影が落ちている。椿の花は唇のようだ。
どうして俺は拒んでいた鈴音にキスをしてしまったのか。触れたくて壊したくて、泣きそうになった。シーツの白と、散らばる髪の毛の黒。コントラストに目がくらんだ。忘れてしまいたい。透也は椿の花を投げ捨てた。
四方八方に伸びる椿の枝は、理科の実験室にある人体模型で見た、人間の神経線によく似ていた。
椿のトンネルを抜け、小さな生垣を抜けると温室の横に出る。ふと見ると、鈴音が言っていた梅の木があった。
『紅梅は、木の髄まで紅いの。人の血液のように』
透也は手を伸ばした。紅い小さな花が無数に枝を飾っている。そして許しを請うように揺れる。透也はその手に力をこめた。
「透也」
聞こえてきた声にびっくりして、透也は枝から手を離して後ろを振り返った。
「杏里」
その人物を見た途端、透也はあっけに取られたようにつぶやいて体の緊張を解いた。
「何をしているんだ」
「別に」
杏里が透也に近づいてくる。
「朝練の時は、いつもどこから来るんだ?」
「杏里が知らないところから」
「俺が知らないところって?」
何だかいつもの杏里とは違うような気がして、透也は言葉を躊躇った。
「杏里の嫌いな花が咲くところから」
「俺の嫌いな花?」
「覚えていないなら、いい」
そう言うと、透也は杏里の肩をすり抜けてグラウンドへと走った。透也が作った小さな風が、杏里の頬をかすった。
「俺の嫌いな花・・・」
つぶやきながら杏里が振り返ると、射してきた朝日が、誰もいない温室をまぶしく照らし出していた。
ストーブの上のやかんが音を立てている。さっきから透也は、目の前で話している担任の顔を見ながらその音ばかり気にしていた。誰かやかんを取らないと、水がなくなってしまう。
人のいない職員室はとても奇妙だ。いつも呼び出されて説教される職員室とは違って見える。今日は運動部の大会や文化部の発表会が重なり、大半の先生が引率していていなかった。クラスも半数以上が空席で、授業のほとんどが自習だった。
陸上部は大会もなく練習も今日は休みだ。俺が先生につかまる前に、杏里は耳鼻科に行くと言って帰っていった。
やかんは音を鳴らし続けている。風はガラス窓を大げさに揺すっている。冬は終わろうとしているのに、景色はまだそれを許そうとはしない。
「おい中谷」
「はいっ」
反射的に答えると、鬼のような形相のクラス担任と目が合った。
「自習の時間、どこに行っていたんだ」
最初はテストのことをどうこう言っていたが、いつのまにか話題が変わっていた。
「えーとですね、あまりにもおなかがすいたので、コンビニでおにぎり二個と、コーラと、」
「もういい」
「いいんですか?」
「お前なあ、どうして俺を困らせるようなことばかりするんだよ」
担任は、急に鬼からしおれたほうれん草のような口調に変わった。
「だって先生が困ってる顔って可愛いんだもん」
透也がにかっと笑って言うと、
「俺をからかってそんなに面白いのか」
と、担任はまた怒鳴った。
「もういい。お前、これから校庭十五周走れ」
「えーっ」
「うるさい。今すぐ行け!走らないなら親を呼ぶぞ」
担任は本気らしく、透也はしぶしぶうなずいた。
「めんどくせー」
夕日に染まった風の通り抜けるグラウンドに立ち、アキレス腱を伸ばして深呼吸をした。
「制服でいっか」
着替えるのも馬鹿らしく、透也は学ランのまま走り出した。冷たかった体は、徐々熱くなっていく。
透也は長距離が嫌いだ。グラウンドを何週走っても、景色が変わらないからつまらない。マラソン大会まで毎日あった早朝練習も、ずっとみんなでぐるぐるまわっているとバターになってしまいそうで怖かった。でも、校外のマラソンコースを走ると途端にタイムが速くなる。
最初の方は余裕もあって早く十五周を終わらせようと意気込んで走っていたが、次第にペースが落ちていくのに気づく。透也は学ランの上着を脱いでシャツも脱いで、Tシャツ一枚になった。その白い背中は夕日の赤に染まっている。
地面を見て走るのにも飽きて校舎を見ながら走っていると、日直の先生が回っているのか、人のいない教室の電気が次々と消えていくのが見えた。
あと何周だっけ?これが十周目だから、あと五周。苦しい。体じゃなくて肺が直接痛いような気がする。手のひらに汗がにじんでくる。あと二周だ。風が頬を通り過ぎるとぴりぴりと痛い。あと一周。透也は急激に走るスピードを上げた。あと半周。あと少し。
「終わった~!」
透也は叫び、上体を倒してひざに手を置いた。少しすると息を整えることをやめ、グラウンドに大の字に寝転んだ。そうしてしまうと、元から自分は大地の一部だったような気がした。
少しずつ冷めていく体温に身を任せていると眠ってしまいそうに気持ちいい。このグラウンドでさえこんなに広いのに、世界はどんなにか大きいだろう。
走り終えた開放感と安心感で満たされ、なかなか起き上がることができない。熱を帯びた体の中心は、まだ火のように熱い。目を閉じていても、濃いオレンジ色がまぶたを通して伝わってきた。
「中谷―!」
職員室の窓から、担任の顔がのぞいた。
「終わったのか―?」
「はーい!」
透也は大声で返事をしながら起き上がり、制服の砂をはたいて学ランを着た。
「終わったらさっさと帰れ―!」
「はーい!」
透也は、朝礼台においていたかばんを取って歩き出した。
夕日の橙が目に付き刺さるようだ。静まり返ったグラウンドを横切り裏門から出ようとすると、門柱に寄りかかっている杏里を見つけた。
「遅かったな」
「まあね・・・って何で杏里ここにいるんだよ。耳鼻科は?」
「ぐちゃぐちゃ言ってないで帰るぞ」
「はあ?わけわかんねー」
杏里はまだかばんを持ったままだということに透也は気づいた。学校から出ていなかったのだ。いったいどこにいたのだろう。チラリと、杏里の何を考えているか全くわからない横顔を盗み見た。
「まぶしーな・・・」
目を細め、大きな夕日を見つめる杏里はずっと遠い人に見えた。俺の隣にいるのは誰だろう?透也は急に寂しくなった。だから、それを振り払うように叫んだ。
「まぶしー!」
そして一気に坂を駆け下りた。何度も転びそうになりながら、透也は駆けた。風が、体を包むのを感じた。
夕日に溶けていく少年は、遠くまで飛んでいける真っ白い翼をその背に秘めている。
「ガキ」
やっと追いついた杏里が、透也を睨みながら息を切らして言った。
「杏里、今までどこにいたの?」
「耳鼻科」
「すぐにわかるような嘘、つくなよ」
「気になる?」
「別に」
何だかくやしくなって、透也はそっぽを向いた。
「透也、お前砂だらけ」
杏里が、透也の腕をつかんで自分の方に向かせた。取りきれていなかった砂粒が、夕日に反射してきらきら光りながら落ちていった。
「風邪ひくぞ」
言いながら杏里は、透也のはずされたままのボタンに手をかけた。肩越しに夕日が沈んでいく。空はステンドガラスのようにてかてか光っている。
「杏里」
「何」
シャツのボタンをしめながら、杏里は透也を見つめた。その目はひどく悲しげに澄んでいた。
「何でもない」
「何でもないなら言うな」
トン、と透也の肩を押すと、杏里は背を向けて歩き出した。
「ありがとう」
その小さな声に、杏里は気づいたのだろうか。
夕日が沈む。かつては太陽と呼ばれた、孤高の王が沈んでいく。
次の日、杏里は部活を休んだ。そのことに透也は部活の途中で気がついた。バーをセッティングしている途中でふと見上げた窓に、杏里がいるのを見つけたのだ。じっと見ると、「今日休む」
と透也に向かって言っているのがわかった。そしてすぐに窓から離れ、姿を消してしまった。
帰り道は、このグラウンドを通って裏門から出ないとかなり遠回りになる。杏里が帰る時につかまえて理由を聞こう。そう、透也は思った。部活に出ると言っていたのに、急に先生に呼ばれた、と教室を出て行ってしまったその行動がどうも腑に落ちない。
余寒を含んだ夕の軽風が、透也の髪の毛を不安げに揺らした。黄昏が、杏里を待つ透也の頬を染めていく。
十五分、三十分と時間は経っても杏里は来ない。ついに透也はかけ出した。背後で透也を呼ぶ声が聞こえたが、知らぬ振りをして新校舎の中に入った。夕日の薄い金色の光が漂う廊下は人けがなく、元から誰もいなかったかのように静まり返っている。
靴を脱ぎ、上履きは履かずに歩いた。職員室の横を通っても、教師は部活に出ているためか話し声は聞こえない。下駄箱を見ると、杏里の靴はまだそこにあった。
放送室の前を通り過ぎた頃、透也は誰かの弾くピアノの音を聞いた。今日の音楽の授業は先生が出張で自習だったはずだ。
透也は旧校舎にある音楽室へと向かった。相談室を過ぎ、階段の前を通り、日の当たらない廊下を抜け、音楽室の分厚い扉の前に立った。聞こえてくるのは『花の季節』。
新校舎とは違うコンクリートの冷気が、透也の足元を冷たくさせる。不意に曲が止まった。透也は両開き扉の片方の扉を開けた。
そこには、杏里ともう一人・・・鈴音がいた。そして透也が見たものは、抱き合ってキスをしている二人だった。黄金の光の渦の中、透也は立ち尽くした。声さえ出なかった。
光の粒子がきらきらと輝いて落ちていく。まるで蝶の燐粉のように。
透也は困惑し、体が動かせない。それでも別の自分が、早くこの場を離れろと警告を発している。どういうことなのかさっぱり理解できないが、透也にとっては世界で一番見たくない光景だった。
そしてとうとうかけ出した。音楽室を出て職員玄関へ戻ると、靴をはいてそのまま部室へ向かった。
「私をダシに使うなんて、いい根性してる」
杏里を突き放しながら鈴音は言った。
「こんな遠回しな駆け引き、ずるいだけ」
杏里を強く睨んで鈴音は言った。
「残念だけど、俺はあんたも手に入れたい」
どちらも俺のものだと、杏里は笑った。
「透也は約束を破らない」
「悪趣味」
「お互い様」
その言葉には何も返さず、鈴音はもう一度ピアノの前に座った。
「グリーグの『蝶々』弾いてよ」
杏里がそう言うと、鈴音はシューマンの『蝶々(パピヨン)』を弾き始めた。
「お前って、本当につかめない女」
蜘蛛は双方を見つめている。どこも見ていないような眼差しで。
高い梢には白や赤の花が咲き乱れ、道のあちこちに椿の花が散らばっている。夢の中のように美しい光景だ。
透也はそのトンネルの下を通りながら、随分前に、杏里が椿は嫌いだと言っていたことを思い出した。なぜ嫌いなのかと尋ねたら、花ごと地面に落ちるからまるで首を切られたようで気味が悪いと言っていた。
「そんなことないのにな」
透也はつぶやき、落ちていた赤い花を一つ拾った。そして、その花の色が血のようだとも言っていたことを思い出した。それを聞いてから、この道を杏里に教えることを躊躇っている。
杏里に、隠しごとが一つできてしまった後ろめたさはあるものの、自分だけの秘密ができたような気がして少し、嬉しかった。
木が密集しているせいで弱く光が差し込む頭上を見上げた。聞こえてくるのは鳥の声と葉ずれの音。足元に、椿が作るまだらの影が落ちている。椿の花は唇のようだ。
どうして俺は拒んでいた鈴音にキスをしてしまったのか。触れたくて壊したくて、泣きそうになった。シーツの白と、散らばる髪の毛の黒。コントラストに目がくらんだ。忘れてしまいたい。透也は椿の花を投げ捨てた。
四方八方に伸びる椿の枝は、理科の実験室にある人体模型で見た、人間の神経線によく似ていた。
椿のトンネルを抜け、小さな生垣を抜けると温室の横に出る。ふと見ると、鈴音が言っていた梅の木があった。
『紅梅は、木の髄まで紅いの。人の血液のように』
透也は手を伸ばした。紅い小さな花が無数に枝を飾っている。そして許しを請うように揺れる。透也はその手に力をこめた。
「透也」
聞こえてきた声にびっくりして、透也は枝から手を離して後ろを振り返った。
「杏里」
その人物を見た途端、透也はあっけに取られたようにつぶやいて体の緊張を解いた。
「何をしているんだ」
「別に」
杏里が透也に近づいてくる。
「朝練の時は、いつもどこから来るんだ?」
「杏里が知らないところから」
「俺が知らないところって?」
何だかいつもの杏里とは違うような気がして、透也は言葉を躊躇った。
「杏里の嫌いな花が咲くところから」
「俺の嫌いな花?」
「覚えていないなら、いい」
そう言うと、透也は杏里の肩をすり抜けてグラウンドへと走った。透也が作った小さな風が、杏里の頬をかすった。
「俺の嫌いな花・・・」
つぶやきながら杏里が振り返ると、射してきた朝日が、誰もいない温室をまぶしく照らし出していた。
ストーブの上のやかんが音を立てている。さっきから透也は、目の前で話している担任の顔を見ながらその音ばかり気にしていた。誰かやかんを取らないと、水がなくなってしまう。
人のいない職員室はとても奇妙だ。いつも呼び出されて説教される職員室とは違って見える。今日は運動部の大会や文化部の発表会が重なり、大半の先生が引率していていなかった。クラスも半数以上が空席で、授業のほとんどが自習だった。
陸上部は大会もなく練習も今日は休みだ。俺が先生につかまる前に、杏里は耳鼻科に行くと言って帰っていった。
やかんは音を鳴らし続けている。風はガラス窓を大げさに揺すっている。冬は終わろうとしているのに、景色はまだそれを許そうとはしない。
「おい中谷」
「はいっ」
反射的に答えると、鬼のような形相のクラス担任と目が合った。
「自習の時間、どこに行っていたんだ」
最初はテストのことをどうこう言っていたが、いつのまにか話題が変わっていた。
「えーとですね、あまりにもおなかがすいたので、コンビニでおにぎり二個と、コーラと、」
「もういい」
「いいんですか?」
「お前なあ、どうして俺を困らせるようなことばかりするんだよ」
担任は、急に鬼からしおれたほうれん草のような口調に変わった。
「だって先生が困ってる顔って可愛いんだもん」
透也がにかっと笑って言うと、
「俺をからかってそんなに面白いのか」
と、担任はまた怒鳴った。
「もういい。お前、これから校庭十五周走れ」
「えーっ」
「うるさい。今すぐ行け!走らないなら親を呼ぶぞ」
担任は本気らしく、透也はしぶしぶうなずいた。
「めんどくせー」
夕日に染まった風の通り抜けるグラウンドに立ち、アキレス腱を伸ばして深呼吸をした。
「制服でいっか」
着替えるのも馬鹿らしく、透也は学ランのまま走り出した。冷たかった体は、徐々熱くなっていく。
透也は長距離が嫌いだ。グラウンドを何週走っても、景色が変わらないからつまらない。マラソン大会まで毎日あった早朝練習も、ずっとみんなでぐるぐるまわっているとバターになってしまいそうで怖かった。でも、校外のマラソンコースを走ると途端にタイムが速くなる。
最初の方は余裕もあって早く十五周を終わらせようと意気込んで走っていたが、次第にペースが落ちていくのに気づく。透也は学ランの上着を脱いでシャツも脱いで、Tシャツ一枚になった。その白い背中は夕日の赤に染まっている。
地面を見て走るのにも飽きて校舎を見ながら走っていると、日直の先生が回っているのか、人のいない教室の電気が次々と消えていくのが見えた。
あと何周だっけ?これが十周目だから、あと五周。苦しい。体じゃなくて肺が直接痛いような気がする。手のひらに汗がにじんでくる。あと二周だ。風が頬を通り過ぎるとぴりぴりと痛い。あと一周。透也は急激に走るスピードを上げた。あと半周。あと少し。
「終わった~!」
透也は叫び、上体を倒してひざに手を置いた。少しすると息を整えることをやめ、グラウンドに大の字に寝転んだ。そうしてしまうと、元から自分は大地の一部だったような気がした。
少しずつ冷めていく体温に身を任せていると眠ってしまいそうに気持ちいい。このグラウンドでさえこんなに広いのに、世界はどんなにか大きいだろう。
走り終えた開放感と安心感で満たされ、なかなか起き上がることができない。熱を帯びた体の中心は、まだ火のように熱い。目を閉じていても、濃いオレンジ色がまぶたを通して伝わってきた。
「中谷―!」
職員室の窓から、担任の顔がのぞいた。
「終わったのか―?」
「はーい!」
透也は大声で返事をしながら起き上がり、制服の砂をはたいて学ランを着た。
「終わったらさっさと帰れ―!」
「はーい!」
透也は、朝礼台においていたかばんを取って歩き出した。
夕日の橙が目に付き刺さるようだ。静まり返ったグラウンドを横切り裏門から出ようとすると、門柱に寄りかかっている杏里を見つけた。
「遅かったな」
「まあね・・・って何で杏里ここにいるんだよ。耳鼻科は?」
「ぐちゃぐちゃ言ってないで帰るぞ」
「はあ?わけわかんねー」
杏里はまだかばんを持ったままだということに透也は気づいた。学校から出ていなかったのだ。いったいどこにいたのだろう。チラリと、杏里の何を考えているか全くわからない横顔を盗み見た。
「まぶしーな・・・」
目を細め、大きな夕日を見つめる杏里はずっと遠い人に見えた。俺の隣にいるのは誰だろう?透也は急に寂しくなった。だから、それを振り払うように叫んだ。
「まぶしー!」
そして一気に坂を駆け下りた。何度も転びそうになりながら、透也は駆けた。風が、体を包むのを感じた。
夕日に溶けていく少年は、遠くまで飛んでいける真っ白い翼をその背に秘めている。
「ガキ」
やっと追いついた杏里が、透也を睨みながら息を切らして言った。
「杏里、今までどこにいたの?」
「耳鼻科」
「すぐにわかるような嘘、つくなよ」
「気になる?」
「別に」
何だかくやしくなって、透也はそっぽを向いた。
「透也、お前砂だらけ」
杏里が、透也の腕をつかんで自分の方に向かせた。取りきれていなかった砂粒が、夕日に反射してきらきら光りながら落ちていった。
「風邪ひくぞ」
言いながら杏里は、透也のはずされたままのボタンに手をかけた。肩越しに夕日が沈んでいく。空はステンドガラスのようにてかてか光っている。
「杏里」
「何」
シャツのボタンをしめながら、杏里は透也を見つめた。その目はひどく悲しげに澄んでいた。
「何でもない」
「何でもないなら言うな」
トン、と透也の肩を押すと、杏里は背を向けて歩き出した。
「ありがとう」
その小さな声に、杏里は気づいたのだろうか。
夕日が沈む。かつては太陽と呼ばれた、孤高の王が沈んでいく。
次の日、杏里は部活を休んだ。そのことに透也は部活の途中で気がついた。バーをセッティングしている途中でふと見上げた窓に、杏里がいるのを見つけたのだ。じっと見ると、「今日休む」
と透也に向かって言っているのがわかった。そしてすぐに窓から離れ、姿を消してしまった。
帰り道は、このグラウンドを通って裏門から出ないとかなり遠回りになる。杏里が帰る時につかまえて理由を聞こう。そう、透也は思った。部活に出ると言っていたのに、急に先生に呼ばれた、と教室を出て行ってしまったその行動がどうも腑に落ちない。
余寒を含んだ夕の軽風が、透也の髪の毛を不安げに揺らした。黄昏が、杏里を待つ透也の頬を染めていく。
十五分、三十分と時間は経っても杏里は来ない。ついに透也はかけ出した。背後で透也を呼ぶ声が聞こえたが、知らぬ振りをして新校舎の中に入った。夕日の薄い金色の光が漂う廊下は人けがなく、元から誰もいなかったかのように静まり返っている。
靴を脱ぎ、上履きは履かずに歩いた。職員室の横を通っても、教師は部活に出ているためか話し声は聞こえない。下駄箱を見ると、杏里の靴はまだそこにあった。
放送室の前を通り過ぎた頃、透也は誰かの弾くピアノの音を聞いた。今日の音楽の授業は先生が出張で自習だったはずだ。
透也は旧校舎にある音楽室へと向かった。相談室を過ぎ、階段の前を通り、日の当たらない廊下を抜け、音楽室の分厚い扉の前に立った。聞こえてくるのは『花の季節』。
新校舎とは違うコンクリートの冷気が、透也の足元を冷たくさせる。不意に曲が止まった。透也は両開き扉の片方の扉を開けた。
そこには、杏里ともう一人・・・鈴音がいた。そして透也が見たものは、抱き合ってキスをしている二人だった。黄金の光の渦の中、透也は立ち尽くした。声さえ出なかった。
光の粒子がきらきらと輝いて落ちていく。まるで蝶の燐粉のように。
透也は困惑し、体が動かせない。それでも別の自分が、早くこの場を離れろと警告を発している。どういうことなのかさっぱり理解できないが、透也にとっては世界で一番見たくない光景だった。
そしてとうとうかけ出した。音楽室を出て職員玄関へ戻ると、靴をはいてそのまま部室へ向かった。
「私をダシに使うなんて、いい根性してる」
杏里を突き放しながら鈴音は言った。
「こんな遠回しな駆け引き、ずるいだけ」
杏里を強く睨んで鈴音は言った。
「残念だけど、俺はあんたも手に入れたい」
どちらも俺のものだと、杏里は笑った。
「透也は約束を破らない」
「悪趣味」
「お互い様」
その言葉には何も返さず、鈴音はもう一度ピアノの前に座った。
「グリーグの『蝶々』弾いてよ」
杏里がそう言うと、鈴音はシューマンの『蝶々(パピヨン)』を弾き始めた。
「お前って、本当につかめない女」
蜘蛛は双方を見つめている。どこも見ていないような眼差しで。