仮病を使おう!
またお前かよ、死にたいのかよ
「間に合わないっ」
 バスの発車時刻まであと五分。間に合わなかったら一週間便所掃除決定だ。重い鞄を抱えて歩道橋をかけあがる。バス停はもう見えている。なのに、下りの階段で足がもつれた。落ちる、そう思った瞬間、誰かの強い腕に、私の体は抱きとめられた。
「っぶねえなあ」
 あれ?この声どこかで・・・。振り向くと、
「この前の、」
 人が、怒った顔をして私をにらんでいた。
「またお前かよ。死にたいのかよ」
 そうだ、この前のお礼しなくちゃ。
「ありが、」
 プップー。
 あ、バスが来た!間に合う!これに乗らなくちゃ!私は反射的に男の子の腕を振りほどくと、閉まりかけのバスに駆け込んだ。バスの中まで体を押し込んで、つり革につかまった。息を整えて我に返ると、歩道橋の上にさっきの男の子が見えた。二度も助けてもらったのに、またお礼が言えなかった。しかも逃げるようにバスに乗っちゃった。まただ。また私は自分のことしか考えられなかった。罪悪感で、歩道橋が揺らいでいく。
 男の子がこっちを見ている。透明で、湖の底みたいな目で。あ、何か言ってる?くちびるが何かの形を作っている。私はじっと目をこらしてそれを読もうとした。
 ケ・ビ・ヨ・ウ・・・?毛病?

 次の日、同じ時刻、同じ歩道橋。今日は昨日にも増して時間がない。タイムリミットはあと三十秒。もうバスが来てる!
 歩道橋を上りきって、手摺をつかんで熱い息を吐き出すと、昨日の男の子が欄干にもたれてじっとこっちを見ているのに気付いた。腕を組んで、不機嫌そうに。私を、待っていたとでも言うように。
「おい」
 そう言って男の子は私の腕をぎゅっとつかんだ。いつもよりも遠くの方で、バスのクラクションが聞こえた。
「あっ」
 私が走り出そうとすると、男の子は瞬間、私を羽交い絞めにして進行方向をふさいだ。
「は、離してっ、」
 バスが行っちゃった!完全に遅刻だ。でもタクシーを使えば間に合うかもしれない。今日は実行委員会と制服検査と、部長会議もあるのに!
「え?ちょ、ちょっと」
 男の子は私の腕をつかんだまま、ぐいぐいと今上ったばかりの歩道橋を下りていく。私も混乱した頭のままひっぱられるままついていく。
「何?ねえってば、ちょっと待って、」
 男の子は何も答えず、乗ったことのない路線のバスに無理矢理私を乗せ、一番後ろの席に座らせた。
「このバスはどこ行きなの?」
 私は半ばあきらめて男の子に聞いた。
「知らね」
「ええっ、降りようよ。何これ、誘拐?身代金はいくら払えばいいの?そもそもあなたは一体誰?」
 それだけ一気に言うと、きょとんとしていた男の子はいきなり笑い出した。
「お前おもしろいな。そうだな、誘拐。だから俺の言う通りにしないと、家に帰さないからな」
ええーっ。誘拐なんてされたの初めてだから、どうしていいかわからない・・・。私がにわかに慌てだすと、男の子はポケットからミントキャンディーを出して私に渡した。自分は窓枠にひじをついて外を見てる。
「いい天気だな。誘拐日和」
「ほんとだ」
 私も、窓の外に流れていく景色に目を移した。風景をまじまじと見るなんて、最近なかったことに気付いた。水色の高い空に、水彩絵の具で描いたような千切れ雲がぷっかりぷっかり浮かんでいた。道端には金色のすすきが風に揺れていた。
「誘拐犯さん、名前はなんていうの?」
「岩傘」
「それ苗字でしょ、名前は?」
「言うのか?」
「言ってよ。私は下野鞠」
「・・・・け」
「え?聞こえないよ。もっとはっきり言ってよ」
「長之助」
「へー、古風な名前だね。あ、別にばかにしているわけではないよ?うちの弟なんて桃太郎って名前だもん。そのくらいじゃ驚かないよ」
 誘拐犯改め長之助君は、また、大きな口を開けて、目を細めて笑った。
「笑うと雰囲気違う」
「とにかく黙って俺について来いっ」
「関白宣言だよ、それ」
「うるせえ」
 学校をサボる、という十七歳で大多数が経験している行事へまた一歩参加できた気がして、もろもろの不安はいつの間にかワクワクへと変化していた。しかもこんなに(口は悪くて強引だけど)かっこいい男の子付きだし。
「降りるぞ」
 どこだろう、ここ。見慣れない景色だと、時間は思いのほか早く過ぎる。バスに乗ってから一時間が過ぎていた。
「遅い」
 秋草の生い茂ったバス停を背にして立っていた、長之助君の隣に追いついた。
「あ、秋の匂い」
 思わず口に出してしまった。そうだ、季節には匂いがある。夏には夏の、秋には秋の。懐かしい、澄んだ匂い。
まっすぐにどこまでも続く道路の脇には、街灯のように背の高い銀杏が並んでいた。頭上からハラハラと金の葉っぱが落ちてくる。足元にも金の絨毯。歩くたびにカサコソと、柔らかい音を立てた。
「秋の匂いって臭いな」
 私の言葉を、長之助君はギンナンの匂いと勘違いしたようだ。私の秋はこんなに臭くない・・・。
「どこ行くの?」
「どこかに行くの」
 不意に私の方を向いて、優しく笑った。まるで純白の綿みたいに。
「どうして、私を連れ出したの?ほとんど初対面なのに」
「そんなこと気にするな」
「あっ、ちょっと待って、友達に電話して学校休むって言っておく。今、ちょうど休み時間だし」
 長之助君は黙ってうなずき、銀杏の木にもたれた。
 二人で並んで歩いた銀杏並木の果てには、広い広い海があった。波の先がとがってグレーに染まった秋の海。微かな潮の香りは、海が近かったからだったんだ。
「うわー、誰もいないよ!海、独り占めだよ!」
「お前が独占するな」
「じゃあ二人占めだ。海に来るなんて中学生の夏以来だよ。結構近くにあるのにね」
 半円形の湾に沿って続く、白い浜辺。防風林がそのあとを追うように生え茂る。秋の儚い光に暖められた砂は、銀色にきらめいて、その熱を私の手の平に伝えた。
 長之助君を見ると、眩しそうに目を細めながら海に見入っていた。そして手をかざして太陽を仰ぎ見た。その瞳が、太陽よりも何よりも、私には眩しく見えた。どこの誰かもわからない。でも、私は長之助君を受け入れてしまっている。いとも簡単に。この、ずっと前からこの人を知っていたようなデジャヴはなんだろう?
「転ぶぞ」
 その予言通りに私は砂に足を取られてよろけ、浜辺にひれ伏すように倒れた。
「注意力散漫」
 差し出された手をつかんで起き上がると、制服は砂で真っ白になっていた。でも、乾いた砂は何度かはたくと、また元のように砂浜の一部に戻った。
「ここにはよく来るの?女の子連れて」
「たまにな。でも最後のは余計だ」
 寄せては返す波打ち際を歩きながら、二人。
「住んでる所と、高校の近辺しか往復してなかったな、ずっと」
「もっと、違う場所に行けよ」
「そんな暇ない。学校のことで精一杯なんだもん」
「欲張りすぎじゃねーの」
「欲張るのはいけない?」
 少しムッとして問い返すと、長之助君は黙った。だから私も黙った。黙ったまま、貝を蹴ったり海草にからまったりしながら歩いた。そして突然、長之助君は言った。
「休むことは、無になることじゃない。乱れた息を整えるくらいのことだ」
 潮風で、私たちの髪の毛が波のように揺れた。その、心地よさ。空を見れば飛ぶカモメ、地面を見れば這うヤドカリ。海に向かえば流れ着いた流木や、ずっと遠くにテトラポット。何もかもが穏やかで、何もかもが懐かしい。
「聞いてんのか?」
「地球ってひろーい」
 ずっと遠くに見える灯台に届くように叫んだ。ずっと忘れていた感覚が、なんとなく蘇ってきた。
「当たり前だバカ。そんなこともわかんねーのかよ。もう行くぞ」
「バカって言う方がバカなんですぅーっ」
「小学生かてめえは」
 そう言ってスタスタと歩き出してしまった長之助君を追って、砂浜を出た。波の密かな水沫が、私の背中越しに消えていく。綿飴みたいな雲が、私たちを見ていた。
「お腹すかない?」
「もう少し先にコンビニがある」
 そう言う長之助君について行くと、ローカルな、コンビニっていうよりスーパーに近いものがあった。そこで私たちはおにぎりとお茶を買って、近くの公園のベンチに座って食べた。
 木のベンチが二つと鉄棒とジャングルジム、あとは桜の木だけの公園。茶色の葉っぱが、風に揺られて微笑みながら落ちていく。
「あ、違うよ、開け方めちゃくちゃじゃん」
「うるせー。食べられればなんだっていいだろ」
 長之助君は手の平を米粒だらけにして、あっという間におにぎり三個をたいらげた。
「おいしい」
「コンビニのだろ」
「でも、外で食べると何倍もおいしいよ。どうしてだろう」
「景色が違うと気持ちも新しくなるんだよ。同じ景色ばっかり見てたら飽きるだろ」
 昼間の誰もいない静かな公園に、その言葉は余韻を残して消えていった。そのあとにはただ風の音と、それに乗って落ちてゆく秋色の葉っぱだけ。天国がもしあるなら、こんなところじゃないかって、不意に思った。
「基本的なこと聞くの忘れてた!長之助君って何年?どこの高校?」
「雪代高校二年」
「雪代?って遠いじゃん」
 私が住む街からバスで一時間もかかる。
「家は?どこから通っているの?」
「玉前」
「あ、じゃあ隣だね。私と家は近いんだ。そっか、だったらここまで三十分くらいだもんね。でも毎朝一時間半の往復はきつくない?」
「そうでもない。バス、好きだし」
 そっか、私が乗るバス停が乗り換え駅だったのか。
「逆上がり競争しようぜ」
「まだできるかな。最後にやったのは、小学生の頃かもしれない」
 どうやるんだっけ、って黒く錆びた鉄棒の持ち方で悪戦苦闘していると、もう隣では長之助君がくるくると器用に鉄棒と遊んでいる。悔しくて鉄棒に向き直った。冷たい、鉄の匂いと感触。ぎゅって握った時の力強い感じ。そうだ、こうやって足で反動をつけて、腕に瞬時に力を込めて、足を垂直に蹴り上げればいいんだ。
そして、真っ逆さま。桜の木も、長之助君の顔も、青空も。自力で風を起こしたという確信をつかんで、私は鉄棒を離した。
「花柄」
 放心状態の私に長之助君が放った一言で、思いっきり我に返った。
「ぶつこたぁねえだろ、ぶつこたぁ」
「そっちの方がガキじゃん。このエロガキッ」
「見せたのはそっちだろ」
「見せてないし」
 公園をあとにして、次の目的地へと。少し先を行く長之助君の、白いシャツを見つめながら歩いた。今日は、時間がずいぶんゆったりと流れている気がする。
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