犬と私の1年間
犬と夏の夜。
凪に導かれて入った室内は真っ暗で、ほこり臭かった。
「電気とか、まだ引いてないから……。ごめん」
「当たり前だよ。空き家だったんでしょ?」
「本当は昼間に柚月さんと来たかったんだけど、僕が柚月さんを怒らせちゃったみたいだし、謝ろうと思ってもいないし。それでも、やっぱりこの家には柚月さんが一緒にいて欲しいって思ったから、どうしても1回見て欲しくて……」
「いいよ、もう……」
話しながら真っ暗な中を恐るおそる進み、凪が1つの大きな襖を開けた。
「うわぁ……」
「……綺麗」
私と凪は何かに導かれる様に、部屋の中へ入った。
襖の奥は大きめの和室になっていて、その向こうに縁側というのだろうか? 小さな廊下みたいなのがあり、更に向こう、ガラス扉で仕切られた先が庭だった。
ガラス越しに見える月の光が真っ暗な室内を満たし、家と月の間に、淡い光の道を造っていた。
そんな幻想的な光景は関係ないとばかりに、ガラスで仕切られた庭を恨めしそうに見る茶トラと灰色狼を見つけて、凪と私は、滑りの悪いガラス扉をギシギシと開けた。開いた瞬間に、2匹は飛び出す様に庭に下りて、楽しそうに追いかけっこを始め、私はその光景をぼんやりと見つめた。
「楽しそうだね……」
「そうだね……」
凪も私の横に立って、月の光と犬と庭と、荒れた花々を見つめていた。
「ああ……」
この光景はいつか、どこかで見た事がある。
それは、マンションを引越しすると決めた私が、1番最初に想像した幸せそうな絵。
まるで奇跡の様に目の前に、ある。
凪がいて、茶トラがいて、灰色狼がいて、私がいる。
「ああ、奇跡だ」と強く思った。
そう思うと、胸が痛くて自然と涙が溢れて来て、私は側にあった凪の腕をハンカチ代わりにして、静かに静かに、泣いた。
それが「幸せ泣き」だと知ったのは、しばらく泣いてからだった。
「いい家だね」
私がポツリと呟くと、凪も「いい家だよね」と静かに返した。
そのまま、私達は会話する事もなく、2匹が心置きなく走り回る姿を、いつまでもいつまでも、飽きずに眺め続けた。
夜明け前まで走り回って疲れた2匹の犬を連れ、私と凪は、ゆっくりとマンションまでの帰路につく。帰り道に凪から聞いた説明によると、あの家は店長さんのおじいさんが住んでた家で、ここ数年空き家になっていた事。売りたくても中々売れず、賃貸にでもするかなあ、と言っていた言葉を凪がタイミングよく聞きつけた事。古い日本家屋だと言うので見に来たら「ここ以外はありえない」と感じた事。
凪が家と出合った経緯はそんな感じだった。
「……で、店長と話を詰めてたら夜が明けちゃって、急いで柚月さんに言いにいったんだ」
「そう……」
凪が運命を感じたのは、物凄くよくわかった。
多分、私が先に見ても、同じ様に運命を感じただろうから……。
それでも……。
「それでも、相談して欲しかった」
相談して、悩んで、一緒に見て、考えて、そして喜びたかったと思うのは、私の我侭だろうか?
これから一緒に暮らすのなら、もっともっと頼って欲しかった。
「ごめんね。僕、これだ! って思ったら、後先考えられなくて……」
「うん。それは知ってる」
犬にしろ家にしろ、即断即決。後の事を考えない。そしてかかわったら最後、自分を見失うほど振り回される。
それでも、この次に何が飛び出すのか? と考え、楽しみに感じてしまうのは、私が凪に慣れたからだろうか? それとも自分のペースや価値観が変わってしまったせいなのか?
凪といる私は、何も考えずに感情をむき出しにして、笑い怒る事が出来る。
素直に笑えたら、怒れたら、泣けたらと何度も思っていた今までの自分。何年も悩んだその問題を、凪は現れた瞬間から魔法のように、嵐のように簡単に叶えてしまった。
問題を起こしては、私まで巻き込み、何も考える余裕のない状態にした私を、怒らせては泣かせる。
何も考えてないからこそ私も感情のまま怒って泣く事が出来る。
強引なやり方だけれど、私が私になれるキッカケを作ってくれたのだ。
感情のまま振り回されるのは、決していい事ばかりじゃないけれど、少なくてもウジウジとしないですむ。
私の中で鈍く滞る、靄や澱が少しずつだが確実に、消え去っているのをはっきりと感じ取れる。
それは決して嫌ではなくて。
そんな自分を――実は結構気に入っている。
夜を含んだ夏の風が心地良くて、私と凪はそれはそれはゆっくりと歩いた。
2人の手にはそれぞれ、大きさが成犬に近づきつつある犬と、風に揺れるリード。
穏やかな気分と、少しの幸せ、そして安心感。
変わる事無く続けばいいのに……と心から願った。
そう思うと、切なくて堪らなくなって「凪」と呼んだ。
「何?」
数歩だけ先を歩いていた凪が振り返った瞬間に、ほっぺに触れるだけのキスをした。
「何? 何? 何!」
混乱している凪を置いて、私はマンションへ逃げるように帰った。
凪はまだ「何!」と夜道で叫んでいた。
マンションに帰り着いて、部屋の鍵をかけた私はベッドに突っ伏した。
今さら恥ずかしくなってきたのだ。
「いくら嬉しかったからって私は何を……」
思い出しそうになり、慌てて頭を振る。
「お礼だから。本当に色々な意味でのお礼だから……」
自分で言えば言う程、段々と恥ずかしくなって、私は暑いのに布団を頭まで被って、隠れるようにして眠りに落ちた。
その夢の中で私は、感情の赴くまま凪と喧嘩をしている。その声を聞いた茶トラと灰色狼が心配そうに庭から私たちを見ている。もちろん場所は「あの家」だ。
直に明晰夢だと悟ったけれど、怒っている私は何だか幸せそうで、その甘い夢の中で私は笑った。
「電気とか、まだ引いてないから……。ごめん」
「当たり前だよ。空き家だったんでしょ?」
「本当は昼間に柚月さんと来たかったんだけど、僕が柚月さんを怒らせちゃったみたいだし、謝ろうと思ってもいないし。それでも、やっぱりこの家には柚月さんが一緒にいて欲しいって思ったから、どうしても1回見て欲しくて……」
「いいよ、もう……」
話しながら真っ暗な中を恐るおそる進み、凪が1つの大きな襖を開けた。
「うわぁ……」
「……綺麗」
私と凪は何かに導かれる様に、部屋の中へ入った。
襖の奥は大きめの和室になっていて、その向こうに縁側というのだろうか? 小さな廊下みたいなのがあり、更に向こう、ガラス扉で仕切られた先が庭だった。
ガラス越しに見える月の光が真っ暗な室内を満たし、家と月の間に、淡い光の道を造っていた。
そんな幻想的な光景は関係ないとばかりに、ガラスで仕切られた庭を恨めしそうに見る茶トラと灰色狼を見つけて、凪と私は、滑りの悪いガラス扉をギシギシと開けた。開いた瞬間に、2匹は飛び出す様に庭に下りて、楽しそうに追いかけっこを始め、私はその光景をぼんやりと見つめた。
「楽しそうだね……」
「そうだね……」
凪も私の横に立って、月の光と犬と庭と、荒れた花々を見つめていた。
「ああ……」
この光景はいつか、どこかで見た事がある。
それは、マンションを引越しすると決めた私が、1番最初に想像した幸せそうな絵。
まるで奇跡の様に目の前に、ある。
凪がいて、茶トラがいて、灰色狼がいて、私がいる。
「ああ、奇跡だ」と強く思った。
そう思うと、胸が痛くて自然と涙が溢れて来て、私は側にあった凪の腕をハンカチ代わりにして、静かに静かに、泣いた。
それが「幸せ泣き」だと知ったのは、しばらく泣いてからだった。
「いい家だね」
私がポツリと呟くと、凪も「いい家だよね」と静かに返した。
そのまま、私達は会話する事もなく、2匹が心置きなく走り回る姿を、いつまでもいつまでも、飽きずに眺め続けた。
夜明け前まで走り回って疲れた2匹の犬を連れ、私と凪は、ゆっくりとマンションまでの帰路につく。帰り道に凪から聞いた説明によると、あの家は店長さんのおじいさんが住んでた家で、ここ数年空き家になっていた事。売りたくても中々売れず、賃貸にでもするかなあ、と言っていた言葉を凪がタイミングよく聞きつけた事。古い日本家屋だと言うので見に来たら「ここ以外はありえない」と感じた事。
凪が家と出合った経緯はそんな感じだった。
「……で、店長と話を詰めてたら夜が明けちゃって、急いで柚月さんに言いにいったんだ」
「そう……」
凪が運命を感じたのは、物凄くよくわかった。
多分、私が先に見ても、同じ様に運命を感じただろうから……。
それでも……。
「それでも、相談して欲しかった」
相談して、悩んで、一緒に見て、考えて、そして喜びたかったと思うのは、私の我侭だろうか?
これから一緒に暮らすのなら、もっともっと頼って欲しかった。
「ごめんね。僕、これだ! って思ったら、後先考えられなくて……」
「うん。それは知ってる」
犬にしろ家にしろ、即断即決。後の事を考えない。そしてかかわったら最後、自分を見失うほど振り回される。
それでも、この次に何が飛び出すのか? と考え、楽しみに感じてしまうのは、私が凪に慣れたからだろうか? それとも自分のペースや価値観が変わってしまったせいなのか?
凪といる私は、何も考えずに感情をむき出しにして、笑い怒る事が出来る。
素直に笑えたら、怒れたら、泣けたらと何度も思っていた今までの自分。何年も悩んだその問題を、凪は現れた瞬間から魔法のように、嵐のように簡単に叶えてしまった。
問題を起こしては、私まで巻き込み、何も考える余裕のない状態にした私を、怒らせては泣かせる。
何も考えてないからこそ私も感情のまま怒って泣く事が出来る。
強引なやり方だけれど、私が私になれるキッカケを作ってくれたのだ。
感情のまま振り回されるのは、決していい事ばかりじゃないけれど、少なくてもウジウジとしないですむ。
私の中で鈍く滞る、靄や澱が少しずつだが確実に、消え去っているのをはっきりと感じ取れる。
それは決して嫌ではなくて。
そんな自分を――実は結構気に入っている。
夜を含んだ夏の風が心地良くて、私と凪はそれはそれはゆっくりと歩いた。
2人の手にはそれぞれ、大きさが成犬に近づきつつある犬と、風に揺れるリード。
穏やかな気分と、少しの幸せ、そして安心感。
変わる事無く続けばいいのに……と心から願った。
そう思うと、切なくて堪らなくなって「凪」と呼んだ。
「何?」
数歩だけ先を歩いていた凪が振り返った瞬間に、ほっぺに触れるだけのキスをした。
「何? 何? 何!」
混乱している凪を置いて、私はマンションへ逃げるように帰った。
凪はまだ「何!」と夜道で叫んでいた。
マンションに帰り着いて、部屋の鍵をかけた私はベッドに突っ伏した。
今さら恥ずかしくなってきたのだ。
「いくら嬉しかったからって私は何を……」
思い出しそうになり、慌てて頭を振る。
「お礼だから。本当に色々な意味でのお礼だから……」
自分で言えば言う程、段々と恥ずかしくなって、私は暑いのに布団を頭まで被って、隠れるようにして眠りに落ちた。
その夢の中で私は、感情の赴くまま凪と喧嘩をしている。その声を聞いた茶トラと灰色狼が心配そうに庭から私たちを見ている。もちろん場所は「あの家」だ。
直に明晰夢だと悟ったけれど、怒っている私は何だか幸せそうで、その甘い夢の中で私は笑った。