犬と私の1年間
犬と旅行計画。
 本のページを捲る私の視界の端に、意図せず侵入してくる厄介な物がある。

 無視しようとしても、物凄い引力で視界の真ん中に入ろうとしてくるので、私は諦めて読書を中断した。

 日々、少しずつ自分の小さなデスクに積み上げられていくカラフルな物体は、凪がコツコツと集めてきた旅行用のパンフレットだった。

 山や海やテーマパークが表紙になっている、薄いけど存在感のあるソレは、私に否応もなく「凪との旅行計画」を思い出させる。

「本当に何を考えてるわけ?」

 旅行だよ? いい年頃の男女が2人で旅行だよ? 恋人同士でもないのに無理でしょ?

「意味、わかってるのかな」

 普通ならわかってるとは思うけど、何せ相手は凪だ。旅行にでも行って来たら? と奥さんに言われて「はい」と素直に従っているだけかも知れない。

 それとも、本当は全てをわかってて、私に圧力をかけてきてる?


 最大限、良心的に考えてあげても、私にはやっぱり無理だ。人から見たら一緒に住んでるくせに、と思われるだろうが、これは同棲ではなく同居であり、深い意味合いはないのだから。

 同じ問いを何度も何度も繰り返しては、1人混乱したり焦ったりしている。

 
 私ばかり意識している気がするけど、凪の本心はどうなのだろう?


 知りたい――でも怖い。


 友達以上、パートナー未満の関係は、今の私にとって物凄く居心地がいい。このままの関係をずっと――と望んでしまう自分がいる。

 望んでいるはずなのに、こんなにもスッキリせずに悩んでしまうのは、何かが足りないせい?

 でも今はまだ「その何か」を足したくはなかった。

 もう少しだけ、あと少しだけ、このままでいたい。





「柚月さんは、どこに行きたい? あのね、僕は海がいいんだけど、もう流石に泳げないし、それなら温泉とか、山はまだ紅葉始まってないか。あ、観光地なんかもいいよね~」

 全国津々浦々のパンフレットを眺めては、目移りしている凪をなるべく刺激しないように話題を変えたい。

「ああ、もう9月も終わりだね。大学始まるよね。遊んでる暇ないよね」

「大丈夫。まだ10日ぐらいあるし。で、僕がいいな、と思ったのはね……」

「10日しかないのか。課題も終わってないし、遊んでる暇ないよね」

「大丈夫。友達にノート借りるから。柚月さんの分も借りてあげるね」

 困った事に、話題が全く変わってくれない。

 朝早くからする楽しい話題に、旅行というのはいいテーマだと思う。それが自分達でなければ。

「それで柚月さんは、どこがいいか決めた?」

 物凄く当たり前のように、嬉しそうに眼を細めて聞いてくる凪に、私はもうウヤムヤ作戦は通じないのだと悟った。それならばハッキリと告げるしかない。


「旅行は無理だよ。茶トラ達を置いて行けない」

「え? 置いていかないよ。連れて行くよ」

「無理だよ。小型犬じゃないよ。電車に乗せるのも大変だよ」

「え? 車で行くつもりだけど」

「え?」

「だって奥さんが平日なら車貸してくれるって。あ、奥さんの車、軽なんだけどね。それでも犬ぐらい乗れるでしょ?」

 軽く混乱してきた。犬連れ? 車? 奥さん? 何それ?

「もしかして、また勝手に決めてきたの?」

 言葉に怒りが滲む。この男はどうして、いつも、いつも……。

「決めてないよ。そういう案があるってだけ。嫌なら茶トラ達は預かって貰うし、電車がいいなら電車で行くし。もう2度と勝手に決めない。柚月さんを怒らせたくないし」

「そう……」

 どうしよう。断りにくい空気になってきている。

「どこにしようか?」

 楽しそうにパンフレットを捲る凪に、下心がある様には見えない。茶トラたちも連れて行くと言ってるし、私が勝手に想像を逞しくしていただけなのかも、と思う。

「そういえば……」

 最近付き合ってとか言わなくなった。もしかして、もうどうでもいいとか? 一緒に住んで、もう私には女性的魅力を感じなくなったとか? お母さん的ポジションに移行してしまったとか? それならそれで一安心だ。

「そういえばって何?」

「何でもないよ」

 安心なはず……なのに私はバッサリと傷つけられた気分で、やけ気味に目の前のパンフレットを捲っていった。






「あ、ここいいな」

 海に近い、小さなペンション。ログハウス風の概観と、オーナー自家製だという野菜を使った素朴なディナーが名物らしい。そして何よりもペット宿泊可。ここなら茶トラ達も一緒にいけるし、値段も安い。これなら交通費を入れても5万円でお釣りが来る。

「あ、そこ、僕もいいなあって思ってた。でも車じゃなきゃいけないぐらいの田舎だよ。海以外に何もないみたいだし。柚月さんも、そんな雰囲気好きなの?」

「うん。特に観光したい訳じゃないし、のんびりしたい。温泉なんかがあればもっと最高だけど、温泉地はうるさいから好きじゃない」

「あ、温泉はね。ペンションから歩いて少しの所にあるらしいよ」

「へえ。益々いいね」

「うん。それにペット可能ってなってるし、茶トラ達もきっと喜ぶね。遠出なんてした事ないもん」

 9月の少し肌寒くなって来た海岸を、私と凪が歩く。その前には駆け回って喜ぶ茶トラと灰色狼。初めての海にびっくりして、走って逃げて、また近づいて……。そんな光景が自然に浮かぶ。

「いいかも……静かで」

「それなら、そこにしようよ。僕、今日にでも予約してくるよ。車の確認もしておくね」

「うん。おねが……」

 全てをお願いする前に、どうしても確認しておきたい質問を思い出した。

 きちんと聞いておかないと、気持ちよく準備出来ない。


 
「部屋は別々だよね。私達」

「もちろん別室だよ。犬OKの部屋は凄く狭いらしいから、柚月さんは茶トラと寝て、僕は灰色狼と寝るつもり。あ、一番最初に車のこと聞いてくるね」

 それだけ言うと、凪は飛び出すように出て行った。


 


「当然だよね」


『別室』それが私達にとっての普通で常識。当たり前だと思う。

 それなのに、少しの寂しさを感じてしまうのは、何故なんだろう。

 心のどこかで、居心地のいい関係を終わらせたいと願っていた?

「まさか」

 自分が望んだとおりに進んでいる。振り回されつつ、何とか普通の方向へ軌道修正している。

 だから問題ない。

 ただ少し、胸が痛いと感じるだけだ。

 



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