犬と私の1年間
犬の一言。
 公衆浴場と聞いていたから、狭くてボロボロの建物なのかと思いきや、中々立派な温泉施設だった。

 私と凪はフロントと書かれた場所で入浴券を購入して、それぞれ男湯と女湯に別れた。

 女湯と書かれた暖簾を潜ろうとして「湯月さん」と声をかけられた。凪の方を見ると「多分、僕の方が早いから、フロントの前で待ってるね。僕の事は気にしないでゆっくりしてくれていいよ」と連絡事項を言って、凪は男湯と書かれた暖簾の奥へ消えていった。

「待ってる……か」

 別にいいのにと思う。待たれると、気を使って早く上がらなければいけない気分になる。でも、確かにあの真っ暗な夜道を1人で歩いて帰るのは少し怖い。

「どっちも、痛し痒しだな」

 こんな所で悩んでも結局は凪と帰る事になるだろう。それなら久々の温泉だし、適度に入って適度に楽しませてもらおう。

 そう決断し、女湯の暖簾に手をかけた。





「ううっ……」

 体を洗い、温泉にもつかり、いい具合にふやけて解れたのに、何だか体が動かない。

 この温泉から出た後はどうするのだろう? とか、本当に一緒の部屋で寝る気なのか? とか今さら問題案件が気になってしまい、出れなくなってしまったのだ。

 それでも、温泉内部に立てこもるのは、肉体的に限界がある。

 のぼせて来たし、これ以上、待たせるのも悪いと思うし、自分でもいい加減上がらないと、と頭ではわかっているのに、体全体が脳の命令を全力で拒否している。

 でも、熱い。もう限界。

 私は意を決し、何十分も浸かり続けた檜風呂から急いで出ようとした。

 頭を急激に上げたせいか、血が脳まで回らない。意識がスウッと白くなっていく。

 あ、ヤバイ! と思ったと同時に、私は意識を手放した。



「んっ……」

 額の冷たい感覚で少しずつ意識が戻り始める。

「柚月さん?」

「ん……な…………ぎ?」

「大丈夫?」

「ん……」

 額に乗せられていた冷たい物が取られ、凪の温かい手が額に触れる。

「んー? まだ熱いかなあ。ちょっと待ってて、氷貰ってくるから」

 パタンと扉が閉じる音が聞こえ、凪の声に安心した私は、また少し眠った。




「うーん……」

 次の意識の覚醒は突然だった。ボンヤリとした頭を起こしながら、何が起こったのか考える。

「あれ? 私、どうしたんだっけ?」

 確か、凪と温泉に行って、それで随分長湯になって、上がろうと思ったら頭が真っ白に……。

「もしかして、あのまま倒れた?」

 嘘! 裸で気絶? 恥ずかしすぎる!

 そもそも、倒れたのならどうやってペンションに帰って来たのだろう? むしろ誰が服を着せてくれたの?

 考えたくない! 考えたくないけど、私、もしかして凪にめちゃくちゃ迷惑をかけたの?

「死ぬ。恥ずかしすぎて死ぬ」

 1人ベッドで数分悶えていると、凪がいない事に気づいた。

「な……凪?」

 狭い部屋だ。いない事は判ってたけど、問いかけてみた。

 シンッと静まり帰った部屋で、無性に寂しくなる。

「風邪を引いた子供みたい」

 目が覚めて、お母さんが見当たらなかった時の寂しさ。そばに居て当たり前になっている人が見当たらない時の不安感。

 風邪をひいて熱が出ると、昔から私は少し素直になった。

 熱で頭が働かなくてボンヤリとして、それで余計な事を考えずにすんだから。

 だから今は少し素直な自分を出せる。

 深く考えないで、思った事を素直に感じられる。



 ――凪がいないのが不安で悲しい。

 ――そばに居て欲しい。それだけでいい。


 凪はどこだろう? どこにいるの?



 

 キイッと静かに扉が開いた音がして、そちらを向くと、凪が「気づいたんだ、柚月さん!」と嬉しそうに言った。

「うん……」

「よかった。お風呂で倒れたんだよ? 憶えてる?」

「何となく……」

「びっくりしたよ! フロントのおじさんと喋りながら待ってたら、若い女の子が湯当たりして倒れた! っておばさんが走ってきてさ。兄ちゃんの連れの女の子じゃないかい? とか言われて、見たら柚月さんだったもん。本当にびっくりしたよ」

「み……見た? 何を?」

 もしや裸で倒れてる所とか? そんなモノを見られた日には、凪には死んでもらうしかない。

「フロントの奥の小部屋みたいな所で寝かされてた柚月さんだよ。顔も真っ赤だったし、オロオロしちゃったよ」

 場所とかどうでもいい! 服を着てたかどうかなの! 

 そう叫びたいのに聞けない。恥ずかしすぎる。

「ちょっと寝てたら顔色も戻ってきたし、それでいつまでもここには寝かせてられないって言われたから、僕がおんぶして帰って来た。そういえば前に酔っぱらって潰れた時よりも重くなってた。柚月さん、太ったね」



 2人の間の時が止まった。

 ニコニコ笑う凪は、女性に絶対に言ってはいけない禁断のワードを出してしまった事に気づいていない。

 いくら真実でも、その単語を言ってはいけないのだ。言えば女性がどうなるか見せてあげよう。



「凪のバカ! デリカシー無し男! バカバカ出て行って! バカ!」

 その辺にあった枕やら何やらを投げつけると、凪は急いで退散していった。

「悪霊退散」

 凪というデリカシーのない悪霊を退治した私は、すっきりとした気分で布団に入った。「本当に太ったのか?」とお腹周りのお肉を確認してしまった事は、凪には秘密だ。





「お世話になりました」

 チェックアウトの際に若奥さんに挨拶をすると、ニコニコ笑いながら「喧嘩でもしたの?」と聞かれた。

「いえ、別に」

「ふふ。まさか夜遅くに『犬と寝かせてください~』とか彼氏さんが泣きついてくるとは思わなかったわ」

「彼氏じゃないですし、犬と寝たいのなら自由にさせてやって下さい」

 はいはい。全てわかってますよ、という顔をされると、少しバツが悪い気がする。

 まさか「太ったね」と言われてキレたとも言えない。

「あ、来たわよ、彼氏さん」

 振り返ると、凪が茶トラと灰色狼を連れて、こちらへ向かって来ていた。その顔が心なしか疲れている様に見える。

「本当に2匹とも、いいワンちゃんね。茶色の子は、秋田犬の血が濃く出てるけど、多分ちょっとだけレトリバーも入ってるんじゃないかな? 黒い子はグレイハウンド……かな? 特徴が1番近い気がするけど、きっと色々なワンちゃんのいい所を受け継いだのね。昨日もとても大人しくしてたわよ」

「ありがとうございます」

 物凄く嬉しい。

 恥ずかしげもなく皆に自慢したい誇らしい気持ち。

 我が子を褒められた世のお母さんは、きっとこんな気分なんだ。

「行こうか、柚月さん」

 そう言いながら大あくびをしている凪を見て、帰りの運転が心配になる。

 それでも免許を持っていない私は運転を代わってあげることも出来ないので、凪を心配しつつ荷物を積み、後部座席に茶トラと灰色狼を乗せた。

「もういい? 出発するよ」

 そう言いながら、急発進した軽自動車の内部で、私はその日一発目の悲鳴を上げた。

 そうだ! 電車で帰るって思ってたのに、すっかり忘れてた!



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