犬と私の1年間
犬の撹乱。
長い長い、初めての夏休みも終わり、後期の授業が始まった。
そうなると、学部の違う私と凪は、結構なすれ違い生活を始めなければならず、食事も別、家にいる時間も結構別、茶トラ達の散歩には交代で行くけど「今日は、時間がないから代わりに散歩お願い!」そんな一言ですむ連絡さえも冷蔵庫に貼り付けてあるマグネットの掲示板に書き込まなければならなかった。
「仕方ない。これは仕方ない」
冷蔵庫に貼られた掲示板に『本日夜勤。散歩お願い』となぐり書きしてある文面を見ながら、ため息をついた。
別に無理して会わなくてもいいし、正直、今は、あんまり凪の顔を見たくない。
見てしまったら、旅行の時に思った事を思い出してしまう。
――そばに居て欲しい。それだけでいい。
この言葉の意味が行き着く先を考えてしまったら、きっと何かが変わってしまう。
変わってしまったら、一緒に住んでるのが苦しくて辛くて嫌になるかも知れないから。
だから、私は凪と会わない生活を甘んじて受け入れていたのだった。
私はどうしてこんなにも臆病で、怖がりな女なのだろう?
誰との関係もこんな感じで、考えすぎて動けなくなってしまうのだ。
凪には少し素直になれるのに、この関係が変わったら? この心地よい関係が終わったら? と先の先の先の事まで考えてしまい怖くなる。
少しでもいい。この関係が長く続いて欲しい。
私と凪と茶トラと灰色狼。2人と2匹。ずっとずっと側にいて仲良くしていたい。
だから……。
私は、自分の気持ちに重石をつけて、ギューギューと心の底へ押し込めようとしていた。
それは、いつ飛び出るかわからない爆弾。そうわかっていたけれど、まだ見えない振りをしたかった。
「ただいま……」
凪が夜の10時ごろフラリと帰って来た。
「あれ? 今日夜勤の日じゃなかったっけ?」
「うん。そうなんだけど、何だかフラフラしてるから、もう帰れって店長に言われた」
靴を脱いで部屋までに行く短い廊下でさえ、あっちへフラフラこっちへフラフラしている凪を見て、直に思い当たった。
「凪! 風邪引いたんじゃないの? だって、もう10月なのに、まだ半袖で寝てるでしょ?」
「うん」
「何か理由があるの? 半袖で寝なきゃいけない?」
「そんな理由ないよ。たんに長そでを出すのが面倒くさい」
そこまで言った所で大きなクシャミをした。
これは間違いない。100%風邪だ!
部屋の襖に手をかけた凪を押しのけるようにして、私は凪の部屋へ突入した。
「……何これは?」
唯でさえ狭い部屋。そこに乱れに乱れた布団が一組、万年床の様相を呈している。その周りには脱ぎ散らかされた衣服が散乱し、折りたたみテーブルの上には教科書の類が整理される事もなく、埃をかぶって放置してある。衣服を持ち上げると、その間から、埃がフワリと立ち上った。
「なるほど」
後期に入り、忙しくて掃除もせず、なおかつ面倒くさいと言って、衣替えもしていない。弱った体に不衛生な埃やら菌やらが入り込んで、流石の凪でも耐えられなくなったのだろう。ここまでくれば自業自得な気もするけど、だからと言って、放置しておく訳にもいかない。
「凪、私、ちょっと……」
部屋を片付けて、病人が寝れる状態にするよ、と言いたかったのだが、振り向いた瞬間に凪が足から崩れ落ちた。
「な……凪!」
「あれ……力が入らないや……。ごめん、柚月さん、僕もう寝る……」
這って布団に潜り込もうとする凪を止める。こんな不衛生な部屋で寝たら、治るものも治らない!
「ここで寝ちゃダメ! 和室の方に布団敷いてあげるから、あっちで寝なさい。今日、ちゃんと掃除したし……」
凪の布団を奪い、運ぼうとして気づいた。この布団やけに薄いし軽い。
「これ夏用じゃないの? しかも掛け布団じゃなくて、今だにタオルケット!」
信じられない。最近冷え込む事が多いのに、まさかタオルケットに半袖で寝ていたとは! そんなの風邪を引いて当たり前だ。
「僕、これしか持ってな……クシュン!」
「もおお! バカ!」
本当に大学生なのか、コイツは? 何て手間がかかる男なのだ!
凪の布団を衣服類の上に投げ捨て、私は凪に肩をかして、ヨロヨロと隣の部屋へ連れていった。
「本当にいいの…………クシュッ」
「いいも悪いもないでしょう? 布団はない。服も出してないじゃ、寝るに寝れないじゃないの! 温かくして寝なさいって言っても出来ないんだから」
私が凪を運び込んだのは、私の部屋のベッドだった。
温かく寝れる部屋や布団がここにしかないのだから、仕方が無い。
ちょっと抵抗がない事もないけど、病人に譲るしかない。
「クシュン! クシュン! 寒い……」
「ほら、熱が上がってきてるんだよ。ちょっと待って、もう一枚毛布出すから」
「ごめ……クシュン、クシュン! クッシュン!」
「お礼はいいから寝なさい。それと、何か食べれそう? 食べれるなら食べてから寝た方がいいよ」
「……温かい物がいい。でも、おかゆは嫌い。ちょっとボリュームのあるヤツがいい」
「食べれるんだね。じゃあ、何か作ってくるよ。あ、これ毛布」
掛け布団の上に毛布をかぶせ「ちょっと待ってなさい」と告げて、部屋を出た。
「全く世話のかかる……」
自分も散々、凪にお世話になった事は、完璧に棚に上げた。あれらの事情は不可抗力だからだ。
「温かくてボリュームのある食べ物……。流石に消化に悪そうなのはダメだし」
冷蔵庫を開けて残りを確認すると、冷凍のウドンにネギ、卵なんかが残ってた。
「鍋焼きウドンでいいか。残り物の整理も出来るし」
ネギを取り出して刻みながら、ウドンを出汁で茹でる。その上に残っていたカマボコと卵、ネギを乗せたら完成だ。
「凪?」
ソッと部屋の襖を開けると、少し苦しそうな寝息が聞こえた。どうやら待っている間に寝てしまったらしい。
「寝れたのなら良かった。でも、これどうしようかな?」
手に持っていたウドンを取りあえずベッド横のテーブルへ置いて、凪の額に手を当てる。
「熱い! ヤバイ! 冷やさないと!」
氷を取りに行こうとした瞬間、物凄く強い力で、腕を引っ張られた。
そのまま凪の上に重なる様に倒れる。
「な……凪?」
「平気だから、ここに居て……そばに居て」
「わかったから、離して。ちょっと痛い」
「ヤダ。柚月さん逃げるから」
ドキンと心臓が脈打った。
重石をつけて沈めた気持ちが、近すぎる距離によって浮上しようとしてくる。
「ダメ! やっぱり離して! あれ?」
凪の手がスルリと下へ落ち、寝息が聞こえる。
「もしかして、寝ぼけてたの?」
安心すると同時に、部屋を飛び出して、洗面器に氷をたくさん入れた。
冷たい氷水を触っている筈なのに、凪の言葉と少し強引な行動が、私の全身を真っ赤に染めている。
私も今は少し冷やした方がいい。
――そばに居て
その言葉が嬉しいなんて思ってはダメだ。
熱に侵された病人の戯言を信じちゃダメだ。
冷静に冷静に対応しないと。
それに。
――言われなくても私はそばに居る。
そうなると、学部の違う私と凪は、結構なすれ違い生活を始めなければならず、食事も別、家にいる時間も結構別、茶トラ達の散歩には交代で行くけど「今日は、時間がないから代わりに散歩お願い!」そんな一言ですむ連絡さえも冷蔵庫に貼り付けてあるマグネットの掲示板に書き込まなければならなかった。
「仕方ない。これは仕方ない」
冷蔵庫に貼られた掲示板に『本日夜勤。散歩お願い』となぐり書きしてある文面を見ながら、ため息をついた。
別に無理して会わなくてもいいし、正直、今は、あんまり凪の顔を見たくない。
見てしまったら、旅行の時に思った事を思い出してしまう。
――そばに居て欲しい。それだけでいい。
この言葉の意味が行き着く先を考えてしまったら、きっと何かが変わってしまう。
変わってしまったら、一緒に住んでるのが苦しくて辛くて嫌になるかも知れないから。
だから、私は凪と会わない生活を甘んじて受け入れていたのだった。
私はどうしてこんなにも臆病で、怖がりな女なのだろう?
誰との関係もこんな感じで、考えすぎて動けなくなってしまうのだ。
凪には少し素直になれるのに、この関係が変わったら? この心地よい関係が終わったら? と先の先の先の事まで考えてしまい怖くなる。
少しでもいい。この関係が長く続いて欲しい。
私と凪と茶トラと灰色狼。2人と2匹。ずっとずっと側にいて仲良くしていたい。
だから……。
私は、自分の気持ちに重石をつけて、ギューギューと心の底へ押し込めようとしていた。
それは、いつ飛び出るかわからない爆弾。そうわかっていたけれど、まだ見えない振りをしたかった。
「ただいま……」
凪が夜の10時ごろフラリと帰って来た。
「あれ? 今日夜勤の日じゃなかったっけ?」
「うん。そうなんだけど、何だかフラフラしてるから、もう帰れって店長に言われた」
靴を脱いで部屋までに行く短い廊下でさえ、あっちへフラフラこっちへフラフラしている凪を見て、直に思い当たった。
「凪! 風邪引いたんじゃないの? だって、もう10月なのに、まだ半袖で寝てるでしょ?」
「うん」
「何か理由があるの? 半袖で寝なきゃいけない?」
「そんな理由ないよ。たんに長そでを出すのが面倒くさい」
そこまで言った所で大きなクシャミをした。
これは間違いない。100%風邪だ!
部屋の襖に手をかけた凪を押しのけるようにして、私は凪の部屋へ突入した。
「……何これは?」
唯でさえ狭い部屋。そこに乱れに乱れた布団が一組、万年床の様相を呈している。その周りには脱ぎ散らかされた衣服が散乱し、折りたたみテーブルの上には教科書の類が整理される事もなく、埃をかぶって放置してある。衣服を持ち上げると、その間から、埃がフワリと立ち上った。
「なるほど」
後期に入り、忙しくて掃除もせず、なおかつ面倒くさいと言って、衣替えもしていない。弱った体に不衛生な埃やら菌やらが入り込んで、流石の凪でも耐えられなくなったのだろう。ここまでくれば自業自得な気もするけど、だからと言って、放置しておく訳にもいかない。
「凪、私、ちょっと……」
部屋を片付けて、病人が寝れる状態にするよ、と言いたかったのだが、振り向いた瞬間に凪が足から崩れ落ちた。
「な……凪!」
「あれ……力が入らないや……。ごめん、柚月さん、僕もう寝る……」
這って布団に潜り込もうとする凪を止める。こんな不衛生な部屋で寝たら、治るものも治らない!
「ここで寝ちゃダメ! 和室の方に布団敷いてあげるから、あっちで寝なさい。今日、ちゃんと掃除したし……」
凪の布団を奪い、運ぼうとして気づいた。この布団やけに薄いし軽い。
「これ夏用じゃないの? しかも掛け布団じゃなくて、今だにタオルケット!」
信じられない。最近冷え込む事が多いのに、まさかタオルケットに半袖で寝ていたとは! そんなの風邪を引いて当たり前だ。
「僕、これしか持ってな……クシュン!」
「もおお! バカ!」
本当に大学生なのか、コイツは? 何て手間がかかる男なのだ!
凪の布団を衣服類の上に投げ捨て、私は凪に肩をかして、ヨロヨロと隣の部屋へ連れていった。
「本当にいいの…………クシュッ」
「いいも悪いもないでしょう? 布団はない。服も出してないじゃ、寝るに寝れないじゃないの! 温かくして寝なさいって言っても出来ないんだから」
私が凪を運び込んだのは、私の部屋のベッドだった。
温かく寝れる部屋や布団がここにしかないのだから、仕方が無い。
ちょっと抵抗がない事もないけど、病人に譲るしかない。
「クシュン! クシュン! 寒い……」
「ほら、熱が上がってきてるんだよ。ちょっと待って、もう一枚毛布出すから」
「ごめ……クシュン、クシュン! クッシュン!」
「お礼はいいから寝なさい。それと、何か食べれそう? 食べれるなら食べてから寝た方がいいよ」
「……温かい物がいい。でも、おかゆは嫌い。ちょっとボリュームのあるヤツがいい」
「食べれるんだね。じゃあ、何か作ってくるよ。あ、これ毛布」
掛け布団の上に毛布をかぶせ「ちょっと待ってなさい」と告げて、部屋を出た。
「全く世話のかかる……」
自分も散々、凪にお世話になった事は、完璧に棚に上げた。あれらの事情は不可抗力だからだ。
「温かくてボリュームのある食べ物……。流石に消化に悪そうなのはダメだし」
冷蔵庫を開けて残りを確認すると、冷凍のウドンにネギ、卵なんかが残ってた。
「鍋焼きウドンでいいか。残り物の整理も出来るし」
ネギを取り出して刻みながら、ウドンを出汁で茹でる。その上に残っていたカマボコと卵、ネギを乗せたら完成だ。
「凪?」
ソッと部屋の襖を開けると、少し苦しそうな寝息が聞こえた。どうやら待っている間に寝てしまったらしい。
「寝れたのなら良かった。でも、これどうしようかな?」
手に持っていたウドンを取りあえずベッド横のテーブルへ置いて、凪の額に手を当てる。
「熱い! ヤバイ! 冷やさないと!」
氷を取りに行こうとした瞬間、物凄く強い力で、腕を引っ張られた。
そのまま凪の上に重なる様に倒れる。
「な……凪?」
「平気だから、ここに居て……そばに居て」
「わかったから、離して。ちょっと痛い」
「ヤダ。柚月さん逃げるから」
ドキンと心臓が脈打った。
重石をつけて沈めた気持ちが、近すぎる距離によって浮上しようとしてくる。
「ダメ! やっぱり離して! あれ?」
凪の手がスルリと下へ落ち、寝息が聞こえる。
「もしかして、寝ぼけてたの?」
安心すると同時に、部屋を飛び出して、洗面器に氷をたくさん入れた。
冷たい氷水を触っている筈なのに、凪の言葉と少し強引な行動が、私の全身を真っ赤に染めている。
私も今は少し冷やした方がいい。
――そばに居て
その言葉が嬉しいなんて思ってはダメだ。
熱に侵された病人の戯言を信じちゃダメだ。
冷静に冷静に対応しないと。
それに。
――言われなくても私はそばに居る。