犬と私の1年間
犬とモヤモヤ感。
「柚月さん? 本当にどうしたの?」
不思議そうに聞いてくる凪の方をなるべく見ないようにして「別に……」と答えた。
いない時はそばに居て欲しいとあんなにも切望したのに、そばに居てくれると今度は別の緊張感が生まれる事にようやく気づいた。
旅行に行ったり、接近されたりすると、女の子として嫌が応にも緊張してしまうものだけれど、何もない状態で、ただ近くにいるだけで緊張してしまうなんて、ヘンだ。
封印しようとしていた考えが、頭を過ぎりそうになる。
それを見てはいけないのに。
見ると心の何かが外れてしまう。
外れてしまうと、2度と元通りにはならない。
元通りにならなくて変わってしまった物は、いつか崩壊してしまうかも知れない。
それはとても嫌だった。
「熱上がってきたのかな?」
そう言って、また額同士で熱を計ろうとする凪の顔を、パシッと止めた。
「お粥ありがとう。もう疲れたから寝てもいい? 薬はあまり好きじゃないからいらない」
「でも……」
「どうしてもダメだったら病院に行くから。本当にごめん。しんどい」
「絶対だよ。それじゃあゆっくり休んで。僕散歩に行ってくるから」
「ありがとう。茶トラ達にご飯もあげてね」
頷いて部屋を出て行く凪を見て、ホッとする。
そばに居ないとダメだと思ったり、居てもダメだと思ったり、顔も見たくないと思ったのに見ると安心したり、今の私の感情は起伏が激しすぎる。こういう時こそ、前の自分に戻りたいと思うけど、それはもう出来ない。
凪のせいで。
凪のおかげで。
私はもう、引き返せない場所に立っているのかも知れない。
「進みたいけど怖い、それにやっぱり……」
このままの関係がいい、という都合のいい言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、酷く苦い薬のようで、舌先に、脳に、体に、甘美な苦みを残す。
その苦みの先は、どんな味が広がるのだろう?
苦くて苦しむ? それとも甘すぎて胃もたれする?
私は凪の素直な感情に引き回されているのに、最近の凪は自分の本心の上に薄い布を張って、私に見せないようにしている気がする。それは何のため?
犬のためにと始めた同居。その理由だけではもうごまかせない所まで来ている。
私は心の片隅で、小さな覚悟を決めた。
「柚月! 久々じゃん! 何してたの? 必修さぼって」
数日ぶりに行った学校で、雅が私を見つけるなり駆けて来た。
「風邪引いた」
「1週間以上休むほどの? それにしては元気そうだし、やつれてもないね」
「そうかな?」
精神的にはかなりのお疲れモードだけど、見た目には変化がなさそうで安心した。
凪と私の風邪は合わせて10日間。その間にさぼった必修の数5。
私、ちゃんと進級出来るだろうか?
「いくら1回生でも、1週間のさぼりはマズイって。代返だって全て出来るわけじゃないよ」
「わかってる」
雅と学部は同じでも、選択している教科が違う。
私には凪のように授業時間ごとに代返をしてくれる友達はいない。
本当に何をしているのだろう? 学校を休んで、バイも休んで。おまけに看病した凪に風邪をうつされて、看病されて。
最近の自分はやる事なす事がめちゃくちゃで、統一性もなくて、後で後悔ばかりしている。自分を見失ってはおろおろし、感情の起伏が激しくて疲れてしまう。
小さくため息をついた私の変化を雅は面白そうに観察していた。
その視線がうるさい。
「何? 雅?」
「恋だよ。それは……」
「は?」
「その切なげなため息。物憂げな表情! 間違いない! 恋!」
「そんな訳ないでしょうが! 何で私があんな世話のかかる男に!」
言ってからハッとした。私は今、墓穴を掘ってしまった気がする……。
何故なら雅のニヤニヤ笑いが、もう爆笑態勢に入っていたからだ。
「ごめん笑っちゃダメだけど、面白い。ふーん。世話のかかる男なんだ? 何? 年下? 高校生とか? うわっ! 超会いたい! だって最近の柚月はめちゃくちゃ可愛くなったんだもん。あの堅物柚月を変えた男に会ってみたいって思うのは友達として当然でしょ?」
私はだんまりを決め込む事にした。これ以上口を開けたら、自分でも何を言ってしまうかわからない。
「誰なのよ。私の知り合い? 紹介してよ!」
私はその日1日、纏わりついて来る雅から逃げ回らなくてはいけなかった。
「くそっ……」
人生で一度も言った事がないセリフを口にしながら、私はバイト先のコンビニで値付け作業をしていた。
雅に笑われ、自分を見失い、こんなにも荒んだ気持ちになったのは初めてだ。
その荒み具合が顔にも態度にも出ているのか、交代で帰った主婦さんに「顔が般若みたいよ」と言われてしまった。
般若にでも鬼にでもなる。このイライラした感情が収まるのなら。
「何で! 私ばかり! こんな目に!」
ガチャン、ガチャン、ガチャンと乱暴に機械を動かす音が店内に響く。
「恋? ばかじゃないの! そんな単純な気持ちで表せるかっての!」
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
「大体、あの男は他の人間に甘えすぎ! マイペースで自分勝手で!」
ガチャン、ガチャン…………ガキッ!!!!
「あっ!」
値付けマシーンの取っ手が割れた。
「ああ、もう最悪……」
店にこれ一台しかないのに……。弁償かな?
「脆い機械すら凪のせい! 全部が全部、凪のせいだ!」
ひとしきり文句を言い終わった私は、値付けマシーンの件を謝るべく、店長の携帯に電話をかけた。
「柚月さん。最近元気ないね? どうしたの?」
久々に凪と顔を合わせながら食べる朝食の席なのに、私は全く食欲がなく、焼いたトーストを持て余していた。
「食欲ないだけ。凪には関係ない」
「関係ないの? 僕! 関係してよ!」
相変わらず遠回しの嫌味は通じない。
「関係ある訳ないじゃん。凪! なんかに……」
あえて凪を強調して言ってみたのだが「関係してよ! 関係してよ!」と騒ぎ始める。
「ごちそうさま」
凪の相手をしている余裕はない。
私は食べられずに持て余していたトーストを凪の皿に置き、無言でキッチンを出た。
最近、気分がずっと晴れない。
胸の中に何かが詰まっていた。重くて暗くて、普段は真っ黒なのに、時おり光る。その光を見たくて堪らなくなって覗きこもうとすると消える。そんなモヤモヤした何か。
「気分転換……しようかな」
今日は大学も休みでバイトも休みの貴重な日。家でモヤモヤとしているにはもったいない。
携帯を取り出して、都合の良さそうな人を探し始めるが、こういう時に自分の交友関係の狭さを痛感してしまう。
「雅……はダメ」
最近、彼氏を紹介しろってうるさいし、いないって言ったら「コンパ!」と騒ぐ。多分、ダメダメな私の交友関係を広げようとしてくれているのだろうけど、正直そういうのは苦手だ。
でもそれもいいのかも知れない。
大学に入学してから直ぐに凪と交流を持ってしまい、トラブル続きで、大学とバイト先と犬の散歩と買い物ぐらいしか出かけていない。
世話をする人や犬が増えたせいだと考えていたけど、本当は自分がその環境に満足して閉じこもっていただけ。
凪とはあくまで同居人の姿勢でいたいのなら、私が交流を広げてしまえばいい。
何も雅のように、あちらこちらに知り合いを作らなくてもいい。
ただ、休みの日に買い物に行ったり、映画に行ったりと気軽に遊べる人が数人いればいい。
狭い交流範囲で浅く付き合うのは得意だったのに、今はそれよりも狭い場所に身を置いてしまっている。
だから感情が一方的に不安と不満で膨らんでしまうのだ。
「友人を増やす。友人を増やす……」
今しなければ、まためんどくさくなって止めてしまうと、急いで雅に電話をかけた。
不思議そうに聞いてくる凪の方をなるべく見ないようにして「別に……」と答えた。
いない時はそばに居て欲しいとあんなにも切望したのに、そばに居てくれると今度は別の緊張感が生まれる事にようやく気づいた。
旅行に行ったり、接近されたりすると、女の子として嫌が応にも緊張してしまうものだけれど、何もない状態で、ただ近くにいるだけで緊張してしまうなんて、ヘンだ。
封印しようとしていた考えが、頭を過ぎりそうになる。
それを見てはいけないのに。
見ると心の何かが外れてしまう。
外れてしまうと、2度と元通りにはならない。
元通りにならなくて変わってしまった物は、いつか崩壊してしまうかも知れない。
それはとても嫌だった。
「熱上がってきたのかな?」
そう言って、また額同士で熱を計ろうとする凪の顔を、パシッと止めた。
「お粥ありがとう。もう疲れたから寝てもいい? 薬はあまり好きじゃないからいらない」
「でも……」
「どうしてもダメだったら病院に行くから。本当にごめん。しんどい」
「絶対だよ。それじゃあゆっくり休んで。僕散歩に行ってくるから」
「ありがとう。茶トラ達にご飯もあげてね」
頷いて部屋を出て行く凪を見て、ホッとする。
そばに居ないとダメだと思ったり、居てもダメだと思ったり、顔も見たくないと思ったのに見ると安心したり、今の私の感情は起伏が激しすぎる。こういう時こそ、前の自分に戻りたいと思うけど、それはもう出来ない。
凪のせいで。
凪のおかげで。
私はもう、引き返せない場所に立っているのかも知れない。
「進みたいけど怖い、それにやっぱり……」
このままの関係がいい、という都合のいい言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、酷く苦い薬のようで、舌先に、脳に、体に、甘美な苦みを残す。
その苦みの先は、どんな味が広がるのだろう?
苦くて苦しむ? それとも甘すぎて胃もたれする?
私は凪の素直な感情に引き回されているのに、最近の凪は自分の本心の上に薄い布を張って、私に見せないようにしている気がする。それは何のため?
犬のためにと始めた同居。その理由だけではもうごまかせない所まで来ている。
私は心の片隅で、小さな覚悟を決めた。
「柚月! 久々じゃん! 何してたの? 必修さぼって」
数日ぶりに行った学校で、雅が私を見つけるなり駆けて来た。
「風邪引いた」
「1週間以上休むほどの? それにしては元気そうだし、やつれてもないね」
「そうかな?」
精神的にはかなりのお疲れモードだけど、見た目には変化がなさそうで安心した。
凪と私の風邪は合わせて10日間。その間にさぼった必修の数5。
私、ちゃんと進級出来るだろうか?
「いくら1回生でも、1週間のさぼりはマズイって。代返だって全て出来るわけじゃないよ」
「わかってる」
雅と学部は同じでも、選択している教科が違う。
私には凪のように授業時間ごとに代返をしてくれる友達はいない。
本当に何をしているのだろう? 学校を休んで、バイも休んで。おまけに看病した凪に風邪をうつされて、看病されて。
最近の自分はやる事なす事がめちゃくちゃで、統一性もなくて、後で後悔ばかりしている。自分を見失ってはおろおろし、感情の起伏が激しくて疲れてしまう。
小さくため息をついた私の変化を雅は面白そうに観察していた。
その視線がうるさい。
「何? 雅?」
「恋だよ。それは……」
「は?」
「その切なげなため息。物憂げな表情! 間違いない! 恋!」
「そんな訳ないでしょうが! 何で私があんな世話のかかる男に!」
言ってからハッとした。私は今、墓穴を掘ってしまった気がする……。
何故なら雅のニヤニヤ笑いが、もう爆笑態勢に入っていたからだ。
「ごめん笑っちゃダメだけど、面白い。ふーん。世話のかかる男なんだ? 何? 年下? 高校生とか? うわっ! 超会いたい! だって最近の柚月はめちゃくちゃ可愛くなったんだもん。あの堅物柚月を変えた男に会ってみたいって思うのは友達として当然でしょ?」
私はだんまりを決め込む事にした。これ以上口を開けたら、自分でも何を言ってしまうかわからない。
「誰なのよ。私の知り合い? 紹介してよ!」
私はその日1日、纏わりついて来る雅から逃げ回らなくてはいけなかった。
「くそっ……」
人生で一度も言った事がないセリフを口にしながら、私はバイト先のコンビニで値付け作業をしていた。
雅に笑われ、自分を見失い、こんなにも荒んだ気持ちになったのは初めてだ。
その荒み具合が顔にも態度にも出ているのか、交代で帰った主婦さんに「顔が般若みたいよ」と言われてしまった。
般若にでも鬼にでもなる。このイライラした感情が収まるのなら。
「何で! 私ばかり! こんな目に!」
ガチャン、ガチャン、ガチャンと乱暴に機械を動かす音が店内に響く。
「恋? ばかじゃないの! そんな単純な気持ちで表せるかっての!」
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
「大体、あの男は他の人間に甘えすぎ! マイペースで自分勝手で!」
ガチャン、ガチャン…………ガキッ!!!!
「あっ!」
値付けマシーンの取っ手が割れた。
「ああ、もう最悪……」
店にこれ一台しかないのに……。弁償かな?
「脆い機械すら凪のせい! 全部が全部、凪のせいだ!」
ひとしきり文句を言い終わった私は、値付けマシーンの件を謝るべく、店長の携帯に電話をかけた。
「柚月さん。最近元気ないね? どうしたの?」
久々に凪と顔を合わせながら食べる朝食の席なのに、私は全く食欲がなく、焼いたトーストを持て余していた。
「食欲ないだけ。凪には関係ない」
「関係ないの? 僕! 関係してよ!」
相変わらず遠回しの嫌味は通じない。
「関係ある訳ないじゃん。凪! なんかに……」
あえて凪を強調して言ってみたのだが「関係してよ! 関係してよ!」と騒ぎ始める。
「ごちそうさま」
凪の相手をしている余裕はない。
私は食べられずに持て余していたトーストを凪の皿に置き、無言でキッチンを出た。
最近、気分がずっと晴れない。
胸の中に何かが詰まっていた。重くて暗くて、普段は真っ黒なのに、時おり光る。その光を見たくて堪らなくなって覗きこもうとすると消える。そんなモヤモヤした何か。
「気分転換……しようかな」
今日は大学も休みでバイトも休みの貴重な日。家でモヤモヤとしているにはもったいない。
携帯を取り出して、都合の良さそうな人を探し始めるが、こういう時に自分の交友関係の狭さを痛感してしまう。
「雅……はダメ」
最近、彼氏を紹介しろってうるさいし、いないって言ったら「コンパ!」と騒ぐ。多分、ダメダメな私の交友関係を広げようとしてくれているのだろうけど、正直そういうのは苦手だ。
でもそれもいいのかも知れない。
大学に入学してから直ぐに凪と交流を持ってしまい、トラブル続きで、大学とバイト先と犬の散歩と買い物ぐらいしか出かけていない。
世話をする人や犬が増えたせいだと考えていたけど、本当は自分がその環境に満足して閉じこもっていただけ。
凪とはあくまで同居人の姿勢でいたいのなら、私が交流を広げてしまえばいい。
何も雅のように、あちらこちらに知り合いを作らなくてもいい。
ただ、休みの日に買い物に行ったり、映画に行ったりと気軽に遊べる人が数人いればいい。
狭い交流範囲で浅く付き合うのは得意だったのに、今はそれよりも狭い場所に身を置いてしまっている。
だから感情が一方的に不安と不満で膨らんでしまうのだ。
「友人を増やす。友人を増やす……」
今しなければ、まためんどくさくなって止めてしまうと、急いで雅に電話をかけた。