犬と私の1年間
犬の警戒心。
 店を1歩出ると、横殴りの雨が酷くなっていた。風も強くて、傘なんて役に立ちそうもない。それでも傘を差さない訳にはいかず、開こうとしたら、田中さんに手で止められた。

「傘差してると危ないよ」

「……でも」

 1人で走って帰るならいざ知らず、ほぼ初対面の人の前で、雨風に濡れてびしょびしょの体を晒すのは、流石にためらいを感じる。

 そんなグズグズと戸惑っている私に、田中さんは自分の着ていた上着を掛けた。

「こうすれば、少しはマシでしょ? 家はここから近いの?」

「ええ、走ったら」

「じゃあ、走ろう!」

 そう言って駆け出した田中さんを追う様にして、私も駆け出した。


「キャッ!」

 突如吹いた突風に足を取られて転びそうになる。

「危ない!」

 そう咄嗟に田中さんが腕を取ってくれなければ、見事にすっ転んでいただろう。

「ありがとうございます」

「大丈夫?」

「ええ、何とか……」

「家は、どの辺り?」

「ええっと。そこの角を曲がったら直です。なので、もう、ここまででいいです」

 私は、田中さんの上着をすっぽり被らせて貰い、被害は最小限だったけど、上着を貸した田中さんが水浸しにあったぐらいに、びしょびしょだった。

 こんな目に合わせるなら、どんな事を言われても断固としてお断りすればよかったと激しく後悔したが、今更もうどうしようもなかった。

「いいよ。最後まで見届けるからさ。直そこなんでしょ?」

「でも……」

「いいから、いいから。ここまで来たら、もう一緒だよ」

「いえ、本当にもうここで」

「ダメ。さっきみたいに転びそうになったら危ないから、見届ける」

 田中さんが私を置いて家への曲がり角を曲がってしまったので、私も仕方なく後を追った。

 




「どうぞ……」

「ありがとう」

 差し出したのは、2枚目のタオルと熱いコーヒー。

 まさか、玄関で「送ってくれてありがとう。さようなら」と私のせいでビショビショになった人に言うわけにもいかず、私は「よかったら、少し上がって行きますか?」と言ったのだ。

 タオルは直にびしょびしょになって使えず、2枚目を用意しながら、コーヒーを淹れてみたのだが、段々と自分の行動に関する疑問が膨れ上がって来た。

 出会ったばかりの男の人を家に招きいれる行為について、それが決して褒められるものではないとわかる。

 雅にも注意されたし、危険性なども知ってはいるのだが、私の為にあんなにも濡れた人をそのまま追い返すような度胸もない。


 決して善人ぶりたい訳ではない。ただ私はあまりにも、こういうシュチュエーションに関して無知であった。

 断り方がわからなかった。

 その結果、楽な方、結局は善人ぶる方を選んでしまった。


 ――バカでまぬけで優柔不断。しかも不器用。


 自分を表現する言葉を並べてウジウジと考えているうちに、コーヒーメーカーのコーヒーが出来上がってしまった。

 田中さんも帰るって言っていたし、仲間も待ってるみたいだし、コーヒーを飲んだら本当に帰るだろうと、私はあくまでも楽観的にとらえていた。





「犬が居るって言ってたけど……」

「あれ? 言いましたっけ?」

「犬を飼うから引っ越しがなんとかって」

 田中さんではなく雅と交じわした会話だ。

「ええ、ここに居ますよ」

 そう言って指差したのは、テーブルの下。

 私が帰ってきて、茶トラと灰色狼は尻尾を振って迎えてくれたのだけど、田中さんの姿を確認した途端に、テーブルの下へ潜ってしまったのだ。

「人見知りする犬?」

「いえ、普段は全然そんな事ないんですけど……」

 店長さんや奥さんが来た時なんかは、尻尾を振って出迎えるぐらいだ。散歩中だって、自分から他の犬の飼い主さんに寄って行くのに、今日の茶トラ達はヘンだ。台風が来て怖がっているのかも知れない。

 田中さんが何気なくテーブルの下を覗き込むと、茶トラが「ウゥゥゥゥ!」と威嚇した。

「茶トラ! ダメ!」

 私がそう叱っても、威嚇の唸りは止まらない。

「嫌われたみたいだね」

「す……すみません」

 茶トラは私の膝の間に入り、ピクリとも動く姿勢を崩さず、灰色狼は、そんな茶トラに付き合ってる体で、その横に寝そべっている。

「柚月ちゃんのナイトなんだね。きっと。えっと、茶トラ君だっけ?」

「はい。茶トラと灰色狼です」

「変わった名前だよね? 柚月ちゃんが付けたの?」

「いえ……」

 この話題は出来れば回避したい。しかし私と田中さんの間に共通の話題がない。

「じゃあ、誰が付けたの?」

 こうなるから嫌だったのだ、と思いながらも「友人です!」と答えた。出来ればこれ以上話をしたくない。

 雅へと色々伝わるのは嫌だった。

 どうせ伝わるのなら、自分の口からきちんと説明したい。

「そんなに嫌そうな顔をしないでよ」

 そう笑う田中さんは、若干困惑気味だ。

 その後、何となく会話が続かなくなって、私達は、目の前に置かれたコーヒーを静かに飲んだ。



「……もう1杯如何ですか?」

「じゃあ、もう少しだけ……」

 早々にコーヒーを飲んだにも関わらず、田中さんは席を立とうとしなかった。

 会話が弾んでいる訳でもなく、何となく沈黙に耐えかねて言った一言がコーヒーのおかわりだった。

 静かに席を立って、コーヒーメーカーにもう1杯、コーヒー豆を入れる。

 ポコポコとお湯が落ちる音を聞きながら、確か、戸棚の中に、クッキーがあったはずだと思い出した。

 それも添えて出そうと、戸棚を開けようとするが、届かない。

 店長さんのおじいさんが自分で作ったらしき、木製の手作り戸棚は、通常よりもずっと高い場所へ取り付けられていて、私の背では届かない。戸棚から何かものを取り出す必要がある時には、私はリビングのイスを引っ張っていって、そこに登って取っていたのだ。

 チラリと振り向くと、田中さんがまたテーブルの下を覗き込んでいる。

 それに合わせて「ウウッ!」と威嚇する茶トラの声が聞こえた。本当に今日はどうしたのだろう? 珍しく気が立っている様子だ。


 いや、それよりも、目下の課題は戸棚だ。凪なら平気でイスを取ってきて登るけれど、初対面に近い人の前で披露したくなるような光景ではない。

 戸棚とイスを交互に見ていると、顔を上げた田中さんと目が合った。

「もしかして、その戸棚開けたいの?」

「はい」

「言ってくれたら手伝うのに」

「すみません」

 スッと私の横に立った田中さんは、簡単に戸棚を開けた。

「何取るの?」

「えーっと、クッキーの缶入ってないですか?」

「缶ね。丸い? 四角い?」

「円柱形の長い缶です」

 少し背伸びしただけで、戸棚を見渡せる田中さんは、凪よりも背が高いんだな、と思う。

 凪は、いつもちょっとだけジャンプして、戸棚の中身を取る。その度に、他に仕舞ってある物まで、バラバラと落とすので、よく叱ってる。


 ――凪。


 私の頭の中のイジワルな声と、自分の声が一致してしまう。

 私は結局、凪の事を考えるためにコンパへ行ったみたいなものだ。

 自嘲的な笑みを浮かべる私を、田中さんが見下ろしていた事に私は全く気づかなかった。

 申し訳ないぐらいに、存在を忘れてしまいそうだった。


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