犬と私の1年間
犬との今後。
「凪は……」

「ちょっと待って。お父さん」

 お父さんと凪の男同士の話は、まだまだ続編がありそうで、時間がかかると思った私は、先に割ってしまった湯呑を片付けることにした。

「それ割ったのか。母さん怒るぞ」

「誰のせいだと……」

「ん? 凪か?」

「バカ! お父さんのせいでしょうが!」

 小さな諍いを起こしていると「ただいま~」とお母さんが帰って来た声がした。


「大型犬2匹はやっぱり大変ね。力が強いわ。お父さんも休みの日には……」

 そこまで言って固まるお母さん。私が手に取ってる陶器の破片を凝視する。

「お母さん、これはその……」

「バカ! その湯飲み、5000円もしたんだからああああ!」

 お母さんの悲痛な絶叫がこだました。





「ふーん。お母さんも聞きたいわ。凪君の話」

 散々嘆き悲しみ、叱られた後で、同じソファーに座り、そう言ったお母さん。

「もう聞かなくてもいいよ!」

 聞かれたくないから堪えていたのに、本当に最悪な展開になって来た。

「いや。お母さんにも聞いて貰おう。それはそれは感動的な話だ」

 両親に聞かれる、現在進行形の自分の恋愛話。

 こんな一種の虐待を受けている子供は、かなり可哀そうだと思う。

 羞恥で死ねそうだ。


「では……」

 コホンと咳払いを1つして、お父さんは続きを話始めた。


「凪が、どうして同居解消を受け入れたかについてなのだが……」


 それは知りたい。凪が「分かりました」とか言った意味が分からなかったから。

 姿勢を正してお父さんの言葉を待つが、視線がウロウロと彷徨う。

 さっきまでの出会い編ではノリノリに芝居がかっていたのに、ウソみたいに挙動不審になる。

「お父さん?」

 不思議そうな顔をするお母さん。

「話すならさっさと話して!」

 どうしてお父さんがちょっと頬を赤らめているのかわからない。

 正直キモイし、もう嫌だ。

「ああ、これは、まあ……何というか……」

「何?」

「まあ、凪も男だって話だ……」

「はあ?」

「だから! 柚月の気持ちが自分に向いたって分かって嬉しくてだな。まあ、それで若い男の凪としては、色々としたい訳だが、ずっと同居してたから、どうしていいかも分からなかったらしいぞ……」

 言ってる意味がわからない。

 正しい日本語を使って欲しい。

「そこで! さっきのキスもさせてない発言に戻る訳だよ!!」

 あら? という顔をするお母さんと、微妙な顔をするお父さんと、多分、真っ青になっている私と。

 もう、本当にこの家に帰ってきたくないです。



「柚月!」

 ビシリとお父さんに人差し指を向けられる。

「何?」

「我が娘としては偉い! よくぞ同居しているにも関わらず清い関係を保ち続けた。しかし、男としてみた場合には仕打ちが残酷なのではないか?」

「は?」

「は? ではない。ここは父親としての気持ちと、男としての気持ちが揺れ動く名シーンだ!」

「バカじゃないの?」

「可哀想な凪。こんなにも冷たい娘をよくぞあんなに好いてくれてる物だ」

「はあ?」

「柚月が大事だから手が出せなかったらしいぞ。大事だから傷つけたくないって思ってたらしいぞ。だから日々、欲望と戦ってたらしいぞ」

 凪が、そんな風に思ってくれてたなんて知らなかった。

「大事だから毎回キスしてもいいか聞くが、いっつもダメだと言う堅物柚月。キスぐらいなら、まあ……許してやらん事もない。許可を求めてからしろ」

「どこの大学生が彼氏とキスするのに親の許可を得るのよ! バカじゃないの!」

 机に湯飲みをドンッと置き「そうなんだよ!」と叫ぶお父さん。

 何? まだ恥をかける要素が出てくるのか?

「アイツはバカみたいに真っ直ぐだ。普通、彼女の親に聞くか? キスしてもいいですか? って」

「聞いたんだ……」

 さすが凪だ。思考の斜め上をいく天才だ。

「これ以上、同居を続けてたら、そのうち柚月を傷つけてしまうかも知れない行為に及びそうだった。それぐらい思いつめてたぞ! 凪は!」

「そう」

「そう、ではない! 襲われてたら婦女暴行の現行犯で逮捕だ!」

「凪がそんな事する訳ないでしょ!」

「そうだ。凪はしない。柚月が信用しているからな。柚月を裏切る行為は絶対にしたくないそうだ」

 信用? 裏切り? 

 私は凪のそばに居たいって思ってただけ。

 それだけじゃダメだったの?

 そばに居るのが辛かった?

 私が凪を信じすぎるせいで?

 もう、意味がわからない――わからない。





「愛されてるのねぇ。柚月」

 黙っていたお母さんが口を開いた。

「そ……」

 そんな事ないよ、と言う私の口を塞ぐ。

「だって、今時の男の子にしては、珍しいぐらいに相手の事を考えてくれてるじゃない? あなた同居して何か嫌な事を凪君にされた?」

 私は黙って首を横に振る。

 最初こそ、掃除や洗濯やらで揉めたけど、それ以外、凪は私の嫌がる事を1つもしなかった。

 例え、バイト先の奥さんやお姉さんに甘えたとしても。

 例え、長期失踪をしたとしても(不可抗力が大きいけど)

 心配したり、怒ったり、ヤキモチを焼かされたりしたけれど、それは私が凪を必要としていて、独占したくて、誰にも甘えて欲しくなくて。ずっとずっと私のそばに居て欲しくて。

 凪も同じ気持ちだったのかも知れない。

 私が凪を独占したいように、凪も私を独占したいと思ってくれていた。

 それでも自分の気持ちではなく、私の気持ちを何よりも一番に考えてくれて、ずっとずっと包み込むような優しさで安心感を与え続けていてくれた凪。

 
「素敵な男の子ね」

「うん」


 私は一方的に凪に甘えてばかりいた。凪が優しいから、私はずっと凪に我慢を強いていた。

 恥ずかしい。

 私にはまだ凪を支える力がない。

 凪のように包み込む優しさも、雅のような積極性も、お父さんのような信念も、お母さんのような強さもない、ないないづくしの子供なのだ。

 同居を解消されて当然だと、やっとやっと思い知った。

 そばに居て、お互いに支えて与え合う関係になるのは、私はまだ、強さが足りない。

 泣くだけではなく、心配するだけではなく、甘えるだけではなく、これが私だと誇れる強さが欲しい。

 

「多少の複雑さは残るが、あの男なら柚月をやってもよかろう」

「そうね」

「お父さん、お母さん……」

 ごめんなさい。心配かけてごめんなさい。でも凪を好きになってくれてありがとう。

「もちろん、卒業したらが条件だぞ」

「そうね。凪君が無事に卒業して、一流企業に就職出来たらの話だけどね」

「卒業、就職……未来すぎて想像できない」

「あら? そんな事ないと思うわよ。あっと言う間だから」

「そう?」

「そんなものよ。私なんて柚月が生まれたのは昨日ぐらいに感じてるもの。月日はあっと言う間」

 私とお母さんが他愛もない会話をしていると「で、今後なのだが……」とお父さんが切り出した。

「今後?」

「そう。お母さん、流石にあのままの家に柚月を帰す訳にはいかんから、明日にでもまた、新しいマンションを探してやってくれ。安全安心な女性用マンションだ」

「そうですね」

「ちょっと! 引っ越すってそんなにも急なの?」

「当たり前だ! 結婚まではキスしか許さん!」

「その話はもういいって」

「今住んでる家。凪のバイト先の店長さんに借りてるんだって?」

「うん。格安で」

「凪は、店長に出て行けって言われるまでは、そこに住むらしい。そしてゆくゆくは、あの家を買い取りたいそうだ。もちろん、柚月と犬達と住む為に……」

「そうなんだ……」

 出て行くよりも残る方が寂しい気がする。

 だって色々な思い出があの家には染み付いてるから。

 私だったら、あの家に1人なんて耐えられない。

「あの家は奇跡の家なんだそうだ。だから寂しくても我慢するらしい。でも柚月! 遊びに行くのはいいが、泊まったりするなよ! 結婚まで!」

「わかってるよ」



 奇跡の家。

 凪もそう思ってくれてたのか。

 優しくて温かくて少しボロイけど、安らぎのある私達の家。


「奇跡……」

 それらの奇跡は全て凪が運んできてくれた。

 凪自身との出会い、犬達との出会い、雅と深い友達になれた事、私を私らしく変えてくれた事。

 全ては凪が関係している。


 私にとっての奇跡は、凪に出会えた事かも知れない。
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