犬と私の1年間
犬と私の1年間。
「凪、居るの?」
ピンポーンピンポーンと家のインターホンを鳴らすが、うんともスンとも返事がない。
この家のインターホンはどこに居ても響くので、居るなら気づくはずだ。
連絡なく訪ねて来たので、どうやら入れ違いになってしまったらしい。
今日はバレンタイン。
凪と別々に暮らしだしてからひと月が過ぎていた。
「折角、作ったのに」
サプライズで手渡しをしようとしたのに、相手が居ないのでは渡せない。
勿体ないので、これは私が美味しくいただこう。
そう思って帰ろうとしていたら、遠くから凪が走って来る姿を見つけた。
「久々だね! 柚月さん!」
「そうだね……引越し以来かもね」
「遊びに来てくれたの? どうぞ、上がって上がって」
鍵を開け、少し前まで自分の家として暮らしていた場所へ「お邪魔します」と上がりこむ。
何だか不思議な感じだ。
お正月の、凪事件の後、親達の行動は早かった。
本当にお母さんは私よりも先にこの町に来て、大学を挟んで凪の家とは反対方向の女性専用マンションを契約し、早々に引越しの荷物も詰めていた。
だから、数日後に1人帰宅した際には、部屋はほぼ空っぽの状態で、お母さんが1人、すまし顔でお茶などを飲んで待っていたのだ。
「いい家ねえ……」
犬小屋だけが残るガランとした庭を見ながら、私は「うん」と頷き、静かにお茶を飲んだ。
その翌日。
凪も帰って来て、私はお母さんの見てる前で、この家の鍵を凪に手渡した。
これでもう、この家には自由に入れない。
寂しくて、泣きそうになるけど、泣いちゃダメだ。
だって、凪の方が先に鍵を握りしめながら号泣し出したのだから。
私まで泣くと収集がつかなくなる。だから「凪! 泣かないの! 男の子でしょ? 大学でも会えるでしょ?」と慰めなければいけなかった。
「茶トラも灰色狼も居ない。柚月さんも居ない。僕、やっぱり寂しいよ」
私だって寂しい。同じぐらい寂しい。
勢いで始めた同居生活で、色々と喧嘩したり怒ったり泣かされたりもしたけれど、それ以上に楽しいって思っていた、嬉しいと感じていた。
私はとても幸せだった。
でも、やっぱりけじめはけじめだ。
私達はまだまだ成長出来る。
親の手を借りず、それぞれが自立して、自分達の足で歩き始めるようになってから、また新しい関係をスタートさせればいい。
お互いを思い合える大切なパートナーとして。
「頑張ろう。遊びに来るからさ」
「うん」
「遊びにはいいけど、泊まったりしちゃダメよ柚月」
「はい」
「今までは、しっかり者の柚月に任せて放任してたけど、そうじゃないって気づいたから、これからはちょこちょこ、チェックさせてもらうからね」
「親不孝はしないよ」
「僕もしません。我慢します!」
私達には、今しなければいけない事が沢山あるから。
焦って大事な物を失いたくない。
何が大事かわかっている私達は、だからもう大丈夫。
引越し準備が片付くと、大学が始まった。
始まると直に後期試験がやって来て、その準備でバタバタとしているうちに、1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、気が抜けた頃には、バレンタインまで後数日になっていた。
遅刻、休みを繰り返していた凪の試験結果が心配だったけれど、凪なら切り抜けられたと信じている。
凪は凪のペースで、私は私のペースで、ゆっくりと確かめるように階段を上っていけばいい。
目的地は同じはずだから。
「今日は何? どうしたの?」
随分とガランとしてしまったキッチンでお茶を淹れてくれる凪。
そう言えば、コーヒーメーカーも私の荷物だったから持っていってしまったと思う。
私より、凪の方がコーヒー好きなんだから置いていってあげればよかった。
「柚月さん?」
もう懐かしいと思ってしまう。
古い材木の香りと、庭から吹く風、揺れるカーテンの向こうに映る、茶トラと灰色狼の犬小屋。
今にも庭から「ワン!」と鳴く声が聞こえそう。
大事な大事な思い出。
これからを繋ぐ道しるべ。
「これ、あげる」
渡した小さな袋には、初めて作ったチョコブラウニー。
作るのに苦労したし、ラッピングも悩んだ。それを一瞬で破らるのは想定内だ。
こんな事でいちいち怒っていられない。
「あ、チョコケーキだ!」
「うん、まあ」
「何で?」
「今日バレンタインだから」
「……そうだったっけ? あ、だからか」
「何が?」
「いや、昨日、バイト先の女の人がやたらチョコをくれるなあって思ってたんだ! 何でだろうって思ってたら、そっか。バレンタインだったのか。忘れてた」
「よかったね」
相変わらず皆様に可愛がられてるようで何より。
この辺りが凪だな、と思う。
「柚月さんのケーキが一番美味しそう。それに一番嬉しい」
「ありがと」
「折角来てくれたんだから、一緒に食べようよ。あ、でもお皿ないや。紙皿でもいい?」
「お皿ない? 何で?」
「だって、柚月さんのお皿使ってたじゃん。今まで」
「そうだたっけ?」
「うん。僕引越しの時、1枚もお皿を持ってこなかったもん! コップとお箸はあるけど」
そう言えば、茶碗と箸とコップとマグカップしか凪の持ち物は無かった気がする。
「次はお皿を揃えようね」
「うん。次の休みに買いに行く」
紙皿に移されたケーキと、インスタントコーヒー。
それをコンビニで配ってる小さなスプーンで食べる。
男の子の1人暮らしは、こんなものなのかも知れないなと思う。
お皿なんて多少なくても、凪は凪らしく生きている。
焦らずに少しずつ、色々な物を充実させていけばいい。
物も、人も、自分自身も。
出会ってから1年。
凪は少し変わった。
私も少し変わった。
卒業までは3年。
大切な物を大切に出来る人間になりたい。
「美味しいね! 柚月さん!」
「ほんと? よかった」
美味しいねって一緒の物を食べれる幸せ。
これも凪と出会って初めて知った事実。
庭で鳥が鳴く。
「ウグイス?」
「本当だ。春だね……」
同じ物が聞こえる幸せ。
「ごちそうさま」と席を立って、庭を覗く。
ポツンと寂れてきた犬小屋が胸が痛い。
茶トラ達がいたら、ウグイスの声なんて聞こえなかったのかも知れない。
それでもやっぱり、この庭には茶トラと灰色狼が居て欲しい。
「茶トラ達元気かな?」
寂しそうに呟いて縁側に座る凪の横に腰かける。
「元気みたいだよ。お母さんからよく、動画が送られてくる」
「そっか。また会いに行ってもいいのかな?」
「是非! 凪君泊まりにいらっしゃいだって。お父さんはまた凪とお酒が飲みたいみたいだよ。素直には言ってないらしいけど」
「お酒かぁ……」
苦笑いする凪。
そうだよね。お酒弱いんだもんね。
ホーホケキョと鳴く、ウグイス。
まだ寒い風。
そんな物を感じながら、私達はしばらく縁側に座り続けた。
「私、もう帰るね」
「え? もう?」
「うん。今日は夜勤だし……」
「そっか……」
寂しそうな凪。
自分だけが寂しいなんて思わないでよね。
私だって、寂しい。
そう思ったら、体が自然に動いた。
動いて、凪の頬にキスをした。
これで2回目。
夏の時とは違って、今度はちゃんとした、自分の気持ち。
素直な気持ち。
真っ赤になりながらも「また来てね」と見送ってくれた凪に手を振り、家を後にする。
私の左手には、凪がくれた指輪が小さく光る。
全くの他人同士だった2人が犬に引き寄せられて同居して、また別れて住んで。
それでも、大切な物に出会えて良かったと思う。
凪も、茶トラも灰色狼も。
そして、少しだけ素直になった自分も。
怒ったり、困らせたりする両親の顔も。
お節介な親友の顔も。
凪に出会ってから知った、色々な人の色々な顔。
凪に出会わなかったら、私は今までみたいに、表面だけの付き合いをしていただろう。
「少しは可愛くなれたかな」
そう思える自分が結構好き。
犬と私の1年間。
好きな物が沢山出来た。
犬と私の3年後。
どうなってるか分からないけど、もっともっと皆が好きになれるといいな。
ゆっくりゆっくり歩いていると「柚月さん!」と凪が走ってきた。
「あれ?」
忘れ物でもしたかな? と思って見るけど、特に何も忘れてなさそう。
「凪? 私?」
忘れ物でもした? って聞こうとしたら、いきなり口を塞がれた。
「忘れ物」
長い長いキスの後で呟く凪の顔は真っ赤。
私も真っ赤。
だって、ここ路上だよ?
皆「若いっていいわねえ」って通り過ぎてるよ?
「キスはしてもいいんだよね!! 許可済みだよね!」
大声で叫ぶ凪に「そんな事! 今、ここで言うなああ!」とグーで殴る。
グフッて声を無視して、私は足早に走り去った。
犬と私の1年間。
大切な何かを手に入れました。
ピンポーンピンポーンと家のインターホンを鳴らすが、うんともスンとも返事がない。
この家のインターホンはどこに居ても響くので、居るなら気づくはずだ。
連絡なく訪ねて来たので、どうやら入れ違いになってしまったらしい。
今日はバレンタイン。
凪と別々に暮らしだしてからひと月が過ぎていた。
「折角、作ったのに」
サプライズで手渡しをしようとしたのに、相手が居ないのでは渡せない。
勿体ないので、これは私が美味しくいただこう。
そう思って帰ろうとしていたら、遠くから凪が走って来る姿を見つけた。
「久々だね! 柚月さん!」
「そうだね……引越し以来かもね」
「遊びに来てくれたの? どうぞ、上がって上がって」
鍵を開け、少し前まで自分の家として暮らしていた場所へ「お邪魔します」と上がりこむ。
何だか不思議な感じだ。
お正月の、凪事件の後、親達の行動は早かった。
本当にお母さんは私よりも先にこの町に来て、大学を挟んで凪の家とは反対方向の女性専用マンションを契約し、早々に引越しの荷物も詰めていた。
だから、数日後に1人帰宅した際には、部屋はほぼ空っぽの状態で、お母さんが1人、すまし顔でお茶などを飲んで待っていたのだ。
「いい家ねえ……」
犬小屋だけが残るガランとした庭を見ながら、私は「うん」と頷き、静かにお茶を飲んだ。
その翌日。
凪も帰って来て、私はお母さんの見てる前で、この家の鍵を凪に手渡した。
これでもう、この家には自由に入れない。
寂しくて、泣きそうになるけど、泣いちゃダメだ。
だって、凪の方が先に鍵を握りしめながら号泣し出したのだから。
私まで泣くと収集がつかなくなる。だから「凪! 泣かないの! 男の子でしょ? 大学でも会えるでしょ?」と慰めなければいけなかった。
「茶トラも灰色狼も居ない。柚月さんも居ない。僕、やっぱり寂しいよ」
私だって寂しい。同じぐらい寂しい。
勢いで始めた同居生活で、色々と喧嘩したり怒ったり泣かされたりもしたけれど、それ以上に楽しいって思っていた、嬉しいと感じていた。
私はとても幸せだった。
でも、やっぱりけじめはけじめだ。
私達はまだまだ成長出来る。
親の手を借りず、それぞれが自立して、自分達の足で歩き始めるようになってから、また新しい関係をスタートさせればいい。
お互いを思い合える大切なパートナーとして。
「頑張ろう。遊びに来るからさ」
「うん」
「遊びにはいいけど、泊まったりしちゃダメよ柚月」
「はい」
「今までは、しっかり者の柚月に任せて放任してたけど、そうじゃないって気づいたから、これからはちょこちょこ、チェックさせてもらうからね」
「親不孝はしないよ」
「僕もしません。我慢します!」
私達には、今しなければいけない事が沢山あるから。
焦って大事な物を失いたくない。
何が大事かわかっている私達は、だからもう大丈夫。
引越し準備が片付くと、大学が始まった。
始まると直に後期試験がやって来て、その準備でバタバタとしているうちに、1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、気が抜けた頃には、バレンタインまで後数日になっていた。
遅刻、休みを繰り返していた凪の試験結果が心配だったけれど、凪なら切り抜けられたと信じている。
凪は凪のペースで、私は私のペースで、ゆっくりと確かめるように階段を上っていけばいい。
目的地は同じはずだから。
「今日は何? どうしたの?」
随分とガランとしてしまったキッチンでお茶を淹れてくれる凪。
そう言えば、コーヒーメーカーも私の荷物だったから持っていってしまったと思う。
私より、凪の方がコーヒー好きなんだから置いていってあげればよかった。
「柚月さん?」
もう懐かしいと思ってしまう。
古い材木の香りと、庭から吹く風、揺れるカーテンの向こうに映る、茶トラと灰色狼の犬小屋。
今にも庭から「ワン!」と鳴く声が聞こえそう。
大事な大事な思い出。
これからを繋ぐ道しるべ。
「これ、あげる」
渡した小さな袋には、初めて作ったチョコブラウニー。
作るのに苦労したし、ラッピングも悩んだ。それを一瞬で破らるのは想定内だ。
こんな事でいちいち怒っていられない。
「あ、チョコケーキだ!」
「うん、まあ」
「何で?」
「今日バレンタインだから」
「……そうだったっけ? あ、だからか」
「何が?」
「いや、昨日、バイト先の女の人がやたらチョコをくれるなあって思ってたんだ! 何でだろうって思ってたら、そっか。バレンタインだったのか。忘れてた」
「よかったね」
相変わらず皆様に可愛がられてるようで何より。
この辺りが凪だな、と思う。
「柚月さんのケーキが一番美味しそう。それに一番嬉しい」
「ありがと」
「折角来てくれたんだから、一緒に食べようよ。あ、でもお皿ないや。紙皿でもいい?」
「お皿ない? 何で?」
「だって、柚月さんのお皿使ってたじゃん。今まで」
「そうだたっけ?」
「うん。僕引越しの時、1枚もお皿を持ってこなかったもん! コップとお箸はあるけど」
そう言えば、茶碗と箸とコップとマグカップしか凪の持ち物は無かった気がする。
「次はお皿を揃えようね」
「うん。次の休みに買いに行く」
紙皿に移されたケーキと、インスタントコーヒー。
それをコンビニで配ってる小さなスプーンで食べる。
男の子の1人暮らしは、こんなものなのかも知れないなと思う。
お皿なんて多少なくても、凪は凪らしく生きている。
焦らずに少しずつ、色々な物を充実させていけばいい。
物も、人も、自分自身も。
出会ってから1年。
凪は少し変わった。
私も少し変わった。
卒業までは3年。
大切な物を大切に出来る人間になりたい。
「美味しいね! 柚月さん!」
「ほんと? よかった」
美味しいねって一緒の物を食べれる幸せ。
これも凪と出会って初めて知った事実。
庭で鳥が鳴く。
「ウグイス?」
「本当だ。春だね……」
同じ物が聞こえる幸せ。
「ごちそうさま」と席を立って、庭を覗く。
ポツンと寂れてきた犬小屋が胸が痛い。
茶トラ達がいたら、ウグイスの声なんて聞こえなかったのかも知れない。
それでもやっぱり、この庭には茶トラと灰色狼が居て欲しい。
「茶トラ達元気かな?」
寂しそうに呟いて縁側に座る凪の横に腰かける。
「元気みたいだよ。お母さんからよく、動画が送られてくる」
「そっか。また会いに行ってもいいのかな?」
「是非! 凪君泊まりにいらっしゃいだって。お父さんはまた凪とお酒が飲みたいみたいだよ。素直には言ってないらしいけど」
「お酒かぁ……」
苦笑いする凪。
そうだよね。お酒弱いんだもんね。
ホーホケキョと鳴く、ウグイス。
まだ寒い風。
そんな物を感じながら、私達はしばらく縁側に座り続けた。
「私、もう帰るね」
「え? もう?」
「うん。今日は夜勤だし……」
「そっか……」
寂しそうな凪。
自分だけが寂しいなんて思わないでよね。
私だって、寂しい。
そう思ったら、体が自然に動いた。
動いて、凪の頬にキスをした。
これで2回目。
夏の時とは違って、今度はちゃんとした、自分の気持ち。
素直な気持ち。
真っ赤になりながらも「また来てね」と見送ってくれた凪に手を振り、家を後にする。
私の左手には、凪がくれた指輪が小さく光る。
全くの他人同士だった2人が犬に引き寄せられて同居して、また別れて住んで。
それでも、大切な物に出会えて良かったと思う。
凪も、茶トラも灰色狼も。
そして、少しだけ素直になった自分も。
怒ったり、困らせたりする両親の顔も。
お節介な親友の顔も。
凪に出会ってから知った、色々な人の色々な顔。
凪に出会わなかったら、私は今までみたいに、表面だけの付き合いをしていただろう。
「少しは可愛くなれたかな」
そう思える自分が結構好き。
犬と私の1年間。
好きな物が沢山出来た。
犬と私の3年後。
どうなってるか分からないけど、もっともっと皆が好きになれるといいな。
ゆっくりゆっくり歩いていると「柚月さん!」と凪が走ってきた。
「あれ?」
忘れ物でもしたかな? と思って見るけど、特に何も忘れてなさそう。
「凪? 私?」
忘れ物でもした? って聞こうとしたら、いきなり口を塞がれた。
「忘れ物」
長い長いキスの後で呟く凪の顔は真っ赤。
私も真っ赤。
だって、ここ路上だよ?
皆「若いっていいわねえ」って通り過ぎてるよ?
「キスはしてもいいんだよね!! 許可済みだよね!」
大声で叫ぶ凪に「そんな事! 今、ここで言うなああ!」とグーで殴る。
グフッて声を無視して、私は足早に走り去った。
犬と私の1年間。
大切な何かを手に入れました。