犬と私の1年間
犬と人間の数年間。
 俺が覚えてる1番最初の記憶は……。

 母さんが人間に捕まっていた。

 父さんが逃げろと吼えた。

 俺は闇雲に走ったけど、子犬の足では遠くまでいけず、直に俺も人間に捕まった。

 狭い箱に入れられて「ああ、もうダメだな」と子供心に諦めた時に、箱が開いた。

 日差しが眩しくて、目を閉じた俺に「この子達、僕が貰います」って言ってる人間の男の声。

 うっすら目を開けると、凪が俺に向かって微笑んだ。





 それからどれぐらいたったのか、少し安心した頃、凪の口から「柚月さん」と言う単語を聞くことが多くなった。

 どうやら人間族の若い男である凪は、人間の娘に恋をしたらしい。

 それは、何となく漂ってくる匂いで感じた。

『柚月さんって誰?』

 まだ幼い白ウサギが聞くけど、もちろん人間には「クゥーン」にしか聞こえない。

『凪の好きな人間のメスの名前らしいな』

 この時から若干、大人びていた灰色狼が答える。

『人間のメス? 会いたいなあ』

『会えるかねえ。凪の求愛が届いたらそのうち会えるだろう』

 2匹の会話を俺は冷めた気分で聞いていた。

 人間なんて、母さんを連れて行った人間なんて嫌いだ。




「あんた……バカでしょ?」

 人間の女の声。匂い。

 それに気づいて目を開けると、びっくりした顔をした若い人間の女が立っていた。

 俺も、びっくりした。

 だって、この人間の女は何だか、母さんと同じ匂いがする。

 そう思ってフラフラ近づいた。

 柚月さんは、俺を抱き上げて、頬ずりした。

 俺はその瞬間に、この人間の女と結婚すると決めたんだ――




『若かったなあ。俺……』

 住んでいた狭い狭い部屋から出て行って、庭で生活する様になったある日。

 俺は久々に見た昔の夢で、昔を思い出した。


 いつの間にか、いなくなった白ウサギ。

 いつの間にか、同じ家で寝起きする様になった凪と柚月さん。

 そして、体が大きくなってしまった為に、庭に繋がれ、もう柚月さんのベッドに潜り込めなくなった俺。

 そして大人びたから理性ある大人のオスになった灰色狼。

 4人での生活は、のんびりしている。

 毎日がゆるゆると過ぎる。

 それでも俺は気に入らなかった。


『なあ、灰色狼』

『なんだい? 物思いの秋かい?』

『柚月さんから漂ってくる匂いが変わったと思わないか?』

『ああ、恋する女の匂いだね。良かったじゃないか。我が飼い主達が結ばれるのは、俺達の安定にも繋がる』

『なんでだよ! 俺は認めないからな!』

『まだ、柚月さんと結婚したいとか言うのかい? 俺達は犬。犬は犬同士が1番さ。どうだい? 公園の散歩中に出会うモモちゃんなんてさ』

『あんなブス嫌だ。俺は柚月さんがいい。凪にはやらん! いくら命の恩人とはいえな』

『そうかい……』

 そんな会話を交じわしながらも、俺は秘かに諦めていた。

 格好いい男は、好きな女の幸せを祈る物だからさ。

 だから、柚月さんが幸せならいいか、と思ってたんだ。



 嵐の日。

 凪とは違う男が家に乱入して来た。

 コイツから漂う匂いは発情中のオスの匂い。

 柚月さんは気づかない。

『やばいな……』

『ああ』

 流石に冷静な灰色狼も同意した。

 大切な柚月さんをヘンな男にやる訳にはいかん!

 俺と灰色狼は、柚月さんを守るべく、鉄壁のガードをした。

 してやったのに!!!!




『最近、凪を見かけなくないか?』

『ああ、失踪したらしいな。この前の嵐の夜の出来事に怒って』

『失踪?』

『俺達を捨てて逃げたって事さ』

 捨てた? 俺達を? 凪が?

 あんなにも大切そうにしている柚月さんまで捨てて?

『そんな! バカな!』

『分からん。人間の思考というのは複雑過ぎる。どうして、もっと本能のままに行動しないのか? 謎だ』

 本能のまま行動されても困るが、柚月さんを悲しませるのはもっと許さん!

 凪、見損なったぞ!

 もう、柚月さんはやらん!!




 冬の木枯らしが吹く頃、散歩から帰ると、凪がフラリと帰って来ていた。

 随分と日に焼けて、魚の臭いが沁みこんでいる。

 そして柚月さんに殴られているのを確認して『ざまあみろ』と言ってやった。

 本当は俺も安心して泣きそうになった事は、灰色狼にも秘密だ。





『あの2人は結ばれたのかねえ』

 冬本番。

 凪の失踪事件解決から数日経って、灰色狼が呟いた。

『さあね』

 気づきたくなくても気づく。

 柚月さんの匂いから、幸せを感じる。

 決して俺では与えられなかった幸せそうな匂い。

 男として悔しい。それでも……。

『柚月さんが幸せならいい。凪はおまけだ』
『はいはい』


 俺達、大人になったなあ。

 俺もそろそろ柚月さん離れをして、可愛いメスでも探さないといけないな……。





『なあ、灰色狼』

『何だ? 茶トラ?』

『俺達、柚月さんと凪に捨てられたのか?』

『さあね。分からん』

 飛行機と言う狭い乗り物に閉じ込められ、柚月さんと似た匂いを放つ女の人と男の人。それに柚月さんそっくりの柚月さんよりも若い女の子。

 そんな人達が住んでる家の庭に繋がれた俺。

 数日間はいい子でいたが、何だか1匹で寂しい気がして、少し元気を失った。

「帰ろうか?」の柚月さんの言葉に喜んだ夜。

 遠くの方から嗅ぎなれた匂いを嗅いだ。

『灰色狼? 凪?』

『ああ』

『どうして入って来ないんだい?』

『凪が、どうしようどうしようって言って、ウロウロしてるから1匹ではそちらに行けない』

 そんな会話を塀越しにしているうちに、柚月さんの父さんと言う大きな人間の男が飛び出してきて、凪を追いかけた。

 数10分後、凪は家へ、灰色狼は俺の隣へ繋がれた。

『何があったんだ?』

『ヘンな男だと思って掴まったみたいだ。柚月さんの父上かい? さっきの人間の大男は?』

『そうだよ』

 そこから、何があったのかは知らない。

 だって、誰も俺達には説明してくれなかったから。

 柚月さんも凪もこの家から姿を消し、俺と灰色狼は柚月さんの母さんと父さん、瑞月ちゃんに託されたままになってしまった。

 ああ、どうして誰も教えてくれないのだ?

 俺達だって知りたいぞ。



 そんな気持ちを抱えたまま季節は巡る。

 桜が咲き、夏の蝉が五月蝿くて、庭に赤い葉っぱが積もり、冬には灰色狼と寄り添った。

 生活に不都合はない。

 むしろ十分に可愛がってくれているし、柚月さんの母さんが日に3度も散歩に連れて行ってくれる。

 散歩中に可愛いメスを見つけて、俺の子供も産んで貰った。


 不都合はない。

 話し相手の灰色狼も居るし、近所には子供達も住んでいる。

 寂しくない。

 それでも寂しい。


 物思いに耽る。

 それでも慌しく、また季節は巡る。

 たまに柚月さんが家に帰って来る。

 凪も顔を出す。

 それでも数日したら、また居なくなる。


 寂しい。
 寂しくない。

 ……寂しい。



 季節は巡る。

 そして数度目の桜が咲く季節。


 庭でウトウトしていた俺は、柚月さんの匂いに飛び起きた。

 隣で寝ていた灰色狼も匂いを感じたのか、尻尾を振っている。




「茶トラ、灰色狼。おまたせ。ごめんね。迎えに来たよ」

 そう俺達に向かって話す柚月さんの手にはキラリキラリと光る指輪。

 凪も同じ物をつけている。

「家族は一緒に暮らそうね。あの家で……」


 ああ、と思った。

 寂しいと思ったのは、俺と灰色狼と柚月さんと凪は家族だったからなのか。

 離れて暮らしていたから寂しかったのか。

「ワンッ!」
「ワンッ!」

 俺と灰色狼は『もちろん! 家族だから!』と叫んだ。




 人間と俺達の数年間。

 種族も距離も関係なく、俺達は家族のままだ。



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