犬と私の1年間

犬、観察日記。

「我輩は猫である」と言った偉大な猫が居るらしいが、それを真似るなら「我輩は犬である」から始めたいと思う。

 これは、俺が産まれてから現在に至るまでの、徒然なる日記だ。





 我輩は犬である。

 名前は灰色狼。

 現在は人間に飼われ可愛がられて、それなりに幸せに過ごしているが、こんな俺も人世(犬世?)においてはそれなりに苦労したのだ。

 そもそも出生から不幸の臭いがする。

 俺は野犬と言われる一族で産まれた。

 住宅地に近い山の中、一族が増えすぎて食べ物もなかった。だから幼い俺は常に腹を減らし、弱い兄弟は次々に動かなくなった。

 困った大人達は、人間の住んでる場所から食べ物を頂いて来るようになる。

 悪いとは思ってもそうするしかなかったのだ。そうしなければ、俺達は生きていけなかったのだから仕方が無い。幼い俺はそう思っていたが、後々、その行為が人間を刺激する羽目になる。 




「いたぞ! 野犬だ!」

 ある日。そう言いながら人間が俺達の住処を襲撃してきた。

 逃げ回る大人と、戦う大人。

 俺も力の入らない足でヨチヨチと逃げた。

 逃げながらも思う。

 どうしてだ? と。

 大人達を山に捨てていったのは人間じゃないか?

 俺達は生きるために努力をしただけだ。それなのに、何故? 何故?

 人間の行動の矛盾さ、残酷さを感じながらも子犬の俺は逃げて…………


 そして捕まった――





 奇特な人間が俺達の命を救った。

 名は凪。人間属の若い男。

 この男は実に興味深い人間であった。





「柚月さん……」

 毎日念仏の様に唱える名。それは隣室に住んでいる人間の女の名前。

 どうやら凪は、その柚月さんとやらを好いているらしい。

 それなのに、全くと言って言い程、行動を移さない。

 いいと思ったメスには接客的にアプローチするのが動物のオスの本来の姿だろう。

 それなのに何故、人間は何もしないのだ?


『柚月さん』そう言いながら柚月さんに擦り寄る茶トラ。

 ほら? 種族を超えて柚月さんに恋をした茶トラの方が積極的に迫ってるぞ。

 お前、茶トラに負けるぞ。

 悔しそうな凪の顔。

 実に……興味深い。





 夏の暑い日。

 どうやら俺達は住処を追い出されそうだ。

 凪の部屋に山と積まれた箱、慌しい行動を見てそう思う。茶トラに聞けば柚月さんの部屋も箱の山だそうだ。
 一体、どこへ行くのだろう?

 それもまた、興味深い対象だ。



 夜の月が瞬く。

 俺と茶トラは土の匂いがする場所を走り回る。

 素晴らしい。実に素晴らしい住処だ。

 ふと凪を見ると、柚月さんと並んでこちらを見ている。

 その2人の幸せそうな顔を見て、俺も少し幸せになった。

 凪、お前、何もしてないようで、実はしっかりとしている人間なのだな。色々と。

 少しだけ見直してやろう。




 住処を移して、幾月か。夏の暑さもあまり感じなくなった頃、凪が突然居なくなった。

 原因は男女間の感情の縺れと言うやつだろう。

 傍から見てると、どう見てもお互いに思い合ってる様に見えるのに、それでも中々男女の関係にはならない凪と柚月さんに少しヤキモキしていたから、丁度いい。

 多少変化がないと日常つまらないからな。

 ふぅあぁと大あくびしながら、そんな事を思った。

 どうせ、凪の事。

 柚月さんが心配で心配で数日で帰って来るだろうと思っていたのだ。



 その予測を見事に裏切り、凪はひと月近くも帰って来なかった。

 本当に……興味深い行動を取る男だ。






『なんだ、ここは?』

 飛行機と言う空飛ぶ乗り物に乗せられ、凪の家だという高い高い建物に入る。

 地面が遙か遠い。何だ? この高さは?

 こんな場所に住めるのか? 人間と言う生き物は? 実に奇怪な生物だ。

 帰りたい。

 あの地面の匂いを感じられる我が家に帰りたい。

 俺はそれだけを考えて数日を過ごした。



 またしても飛行機に乗せられ、着いた場所から茶トラの匂いがした。茶トラは確か柚月さんの生まれ育った家に帰ってる筈。という事は、ここは柚月さんのもう1つの家か?

 そんな事を思っていると、大きな大きな人間の男が出てきて、凪を追いかけて来た。

 リードを持たれてるので、俺も走るしかない。

 ああ、最悪だ。

 人間から逃げるなんて、あの悪夢の日以来の出来事だ。

 もう2度と経験したくなかったのに、凪のやつめ。

 バカ野郎!!




 茶トラと共に、柚月さんの家に預けられ、幾月か。

『柚月さん』ばかり言っていた茶トラも、平気な顔をしていた俺も、それなりにこの土地での暮らしに馴染んだ頃、柚月さんと凪が迎えに来た。

 正直……もう絶対に来ないと思っていたんだ。

 人間なんて、簡単に生き物を捨てる。

 自分勝手で残酷な生き物。

 そう思ってたからだ。

 だから、びっくりした。

「家族は一緒に暮らそうね」と柚月さんが微笑みながら言った。

 凪も笑って手を振った。

 俺の尻尾も自然に揺れる。

 揺れて吼えた。

『もちろん、家族だから!』




 月日は流れる。


「はーは。ちゃっちゃ……」

 そう言いながら俺と茶トラに跨る小さな生き物。

 茶トラはこの凪と柚月さんの子供にメロメロで、自慢の毛が引っこ抜かれようが、尻尾を思いっきり踏まれようが忍の一文字で耐えている。

 俺? 俺も同じだ。

 この小さな生物が愛おしくて堪らない。

「こら、息吹(いぶき)ダメでしょ? また茶トラ達をいじめて……。ごめんね、茶トラ、灰色狼」そう言いながら大きなお腹で出てきた柚月さん。

 後ひと月もすれば、この家にまた、新しい家族が出来る筈だ。

 今度の家族はどんな子だろうか? と今から楽しみで仕方が無い。

 茶トラは「柚月さん似の可愛い女の子」だと毎日呟いているが、俺は凪に似ていようが柚月さんに似ていようがどちらでもいい。


 家族はありがたく、そして愛おしい。


 我輩は猫である、と言った偉人(偉猫?)の最後は、哀れであったが、俺も同じ言葉で締めくくりたい。

 意味は全く違うがな。



 ありがたいありがたい。









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