犬と私の1年間
犬との別れ。
凪のバイト先で倒れた数日後、店長さんは忘れずに約束を守ってくれた。
「柚月さん! 1人飼ってもいいって人が見つかったって!」
部屋で茶トラとまったり遊んでいた私の元に、凪が飛び込んできた。
「ほんと?」
「本当! 本当! 店長の姪っこさんで幼稚園の子が欲しがってるんだって犬!」
「やった! よかったね茶トラ」
茶トラを抱き上げて頬ずりする。
最近は随分と大きくなってきて、温かさと共に重量感がズシリと増した。
「何? その手?」
凪が手をこちらに大きく広げて待っていた。
「え? ここはハグかなあって」
「バカじゃないの? ね? 茶トラ?」
ハグするなら茶トラで十分とばかりに、ギュッと抱きしめた。
「クゥーン」
「茶トラ! 勝ったって思うなよ! 勝負はまだついてないぞ」
「バカじゃないの?」
現在、圧倒的に茶トラ優勢。勝てる日なんて……来ないと思うよ。
私はその日から何も考えずに、茶トラと思う存分に遊んだ。
その週末。
幼稚園ぐらいの女の子が、お母さんに手を引かれて、凪の部屋にやって来た。
「可愛い!!」
緊張気味だった女の子の顔がパッと明るくなる。
「お兄ちゃん。どの子でもいいの? 好きな子でいいの?」
「いいよ。どの子が可愛い?」
茶トラ、白ウサギ、灰色狼を交互に見つめる女の子を、私は何故だか泣きたい気持ちで見つめていた。
「お名前あるの?」
「一応ね。その茶色のが茶トラで、白いのが白ウサギで、黒っぽいのが灰色狼だよ」
「トラさんとウサギさんとオオカミさん? へんなの!」
園児にまでバカにされるネーミングセンスだったようだ。
それに慣れてしまった私、慣れって恐ろしい。
女の子は代わる代わる3匹と遊び、満足した表情で1匹を抱き上げた。
去っていく女の子をマンションの階下まで出て見送っていた時に、凪が「よかったね、柚月さん」と言った。
「何が?」
「茶トラじゃなくて……」
女の子が連れ帰ったのは白ウサギだった。1番真っ白で綺麗なのだそうだ。
「……そんな事ないよ。残念だよ」
「ウソばっかり。ずっと泣きそうな顔で女の子を見つめてたよ。茶トラを選ばないでって」
「……ウソだよ。そんな事ないよ」
本心を言うとそんな事はあった。茶トラと今日でお別れかも知れないと思ったら、胸が締め付けられるほど切なくて悲しくなったのだ。茶トラの幸せを願っていた筈なのに、私は我侭で自分勝手に、茶トラと離れたくないって、ずっと願っていた。
それを凪に指摘されたみたいで、凄く恥ずかしかった。
「柚月さんはもう、茶トラと離れないほうがいいのかもね」
「でも、そんなの無理だし」
茶トラとずっと一緒にいようと思ったら、ここを引越ししなければいけない。もし、引越ししたとしても、今までみたいに気軽にフォローしてくれる隣人がいない。
私はまだ、決断が下せずに、グズグズしていた。
「もう……初夏だね」
凪が空気を変えるかのように違う話題を口にした。
確かに、吹いている風が生暖かくて、日の光が随分と眩しくなってきていた。
決断を下さなければならない夏まで、後少し……。
「そうだね。もう夏だね……」
私と凪は、見えなくなった白ウサギを、いつまでも見送り続けた。
凪の部屋に戻ると、2匹がじゃれあって、転がりまわっていた。そして、時々何かを探すようにキョロキョロとする。
「茶トラ、灰色狼。もう白ウサギはいなくなっちゃったよ。きっと幸せに飼ってもらえるよ」
「店長の姪御さんだもん! 絶対に大丈夫。店長って熊みたいな外見とは裏腹に凄く優しい人だから。だから大丈夫だよ。柚月さん」
「え?」
フワッと凪に優しく抱きしめられた。
「だから泣かないでもいいよ。柚月さん」
そう言われてやっと、自分が涙を我慢していた事に気づいた。凪の部屋に入った途端に気が抜けて、涙が勝手に零れる。その涙に自分でも驚いた。
零れそうな涙を我慢した事もないし、勝手に涙が落ちた経験もない。
凪や茶トラと共に過ごすうちに、私の心はどんどん強欲で自分勝手になってきているらしい。
「幸せになるよね? 白ウサギ」
「もちろんだよ」
「これでよかったんだよね」
「うん。絶対に」
私は凪の胸でワーワーと泣いた。
恥ずかしげもなく子供のように、いつまでもいつまでも泣いた。
泣くたびに私の中の何かが溶けて崩れて壊れていく――でも嫌じゃない。
凪の強引な行動も茶トラたちの横暴も、何もかも嫌じゃない。
そう優しく思える自分に驚いて、凪の服を握りなおしてまた泣いた。
「落ち着いた?」
「……うん」
泣いて、泣いて、生まれて初めて顔が腫れているのを体感する。
それに今さらながら凪の胸を借りて泣いた事が恥ずかしくなり、私は急いで凪の腕から抜け出そうとした。
「……凪?」
凪が離してくれない。優しくて弱そうな外見なのに、力が強くて、今さらながら凪は男の子だと思いあたって少し怖くなる。
「柚月さん……」
「な……何?」
もしかしてこのままキスされる? それどころか押さえつけられて力づくで……と怖くなって身構えていた私だったけど、凪が放った言葉は、そんな凡人の発想をはるかに超える言葉だった。
「一緒に住もうか? 僕達?」
「…………は?」
「一緒に住もうか?」
2度言った。どうやら聞き間違いではないらしい。
「何言ってるの?」
「だって、そうしたら2人でこの2匹を育てていけるよ! パパとママみたいに協力して!」
「人が聞いたら誤解する様な発言は止めようね!」
そう叫びながら、凪を突き飛ばして茶トラを抱え部屋に逃げ帰った。
「何……考えてるのアイツ?」
一緒に住む?
男女で? 恋人とかでもなくて?
犬の為に?
そんなのあり得ないと思う。でも凪はきっと本気だ。
だってアイツはいつでもバカ正直で素直で、思ったことを曲げずに話すから。
「バカだ。本当にバカだ」
素直な人間と感情に乏しい人間では、圧倒的に素直な人間の方が強い。
強くて眩しい光に惑わされて誘われて振り回されて、暗い部分のある人間に無理やりその光を浴びせかける。
そしてその光を浴びた人間は、自分も光の中で生きているのだと勘違いするのだ。
勘違いを本物に出来る人間なんて、ほんの一握りで、大多数の勘違い人は、光を失った途端に、また自分という巣穴へと舞い戻ってこもる。
凪の光は私を照らしてくれるし、優しく温かい方へと導いてくれている……けど。
同棲なんて絶対にダメ!
「柚月さん! 1人飼ってもいいって人が見つかったって!」
部屋で茶トラとまったり遊んでいた私の元に、凪が飛び込んできた。
「ほんと?」
「本当! 本当! 店長の姪っこさんで幼稚園の子が欲しがってるんだって犬!」
「やった! よかったね茶トラ」
茶トラを抱き上げて頬ずりする。
最近は随分と大きくなってきて、温かさと共に重量感がズシリと増した。
「何? その手?」
凪が手をこちらに大きく広げて待っていた。
「え? ここはハグかなあって」
「バカじゃないの? ね? 茶トラ?」
ハグするなら茶トラで十分とばかりに、ギュッと抱きしめた。
「クゥーン」
「茶トラ! 勝ったって思うなよ! 勝負はまだついてないぞ」
「バカじゃないの?」
現在、圧倒的に茶トラ優勢。勝てる日なんて……来ないと思うよ。
私はその日から何も考えずに、茶トラと思う存分に遊んだ。
その週末。
幼稚園ぐらいの女の子が、お母さんに手を引かれて、凪の部屋にやって来た。
「可愛い!!」
緊張気味だった女の子の顔がパッと明るくなる。
「お兄ちゃん。どの子でもいいの? 好きな子でいいの?」
「いいよ。どの子が可愛い?」
茶トラ、白ウサギ、灰色狼を交互に見つめる女の子を、私は何故だか泣きたい気持ちで見つめていた。
「お名前あるの?」
「一応ね。その茶色のが茶トラで、白いのが白ウサギで、黒っぽいのが灰色狼だよ」
「トラさんとウサギさんとオオカミさん? へんなの!」
園児にまでバカにされるネーミングセンスだったようだ。
それに慣れてしまった私、慣れって恐ろしい。
女の子は代わる代わる3匹と遊び、満足した表情で1匹を抱き上げた。
去っていく女の子をマンションの階下まで出て見送っていた時に、凪が「よかったね、柚月さん」と言った。
「何が?」
「茶トラじゃなくて……」
女の子が連れ帰ったのは白ウサギだった。1番真っ白で綺麗なのだそうだ。
「……そんな事ないよ。残念だよ」
「ウソばっかり。ずっと泣きそうな顔で女の子を見つめてたよ。茶トラを選ばないでって」
「……ウソだよ。そんな事ないよ」
本心を言うとそんな事はあった。茶トラと今日でお別れかも知れないと思ったら、胸が締め付けられるほど切なくて悲しくなったのだ。茶トラの幸せを願っていた筈なのに、私は我侭で自分勝手に、茶トラと離れたくないって、ずっと願っていた。
それを凪に指摘されたみたいで、凄く恥ずかしかった。
「柚月さんはもう、茶トラと離れないほうがいいのかもね」
「でも、そんなの無理だし」
茶トラとずっと一緒にいようと思ったら、ここを引越ししなければいけない。もし、引越ししたとしても、今までみたいに気軽にフォローしてくれる隣人がいない。
私はまだ、決断が下せずに、グズグズしていた。
「もう……初夏だね」
凪が空気を変えるかのように違う話題を口にした。
確かに、吹いている風が生暖かくて、日の光が随分と眩しくなってきていた。
決断を下さなければならない夏まで、後少し……。
「そうだね。もう夏だね……」
私と凪は、見えなくなった白ウサギを、いつまでも見送り続けた。
凪の部屋に戻ると、2匹がじゃれあって、転がりまわっていた。そして、時々何かを探すようにキョロキョロとする。
「茶トラ、灰色狼。もう白ウサギはいなくなっちゃったよ。きっと幸せに飼ってもらえるよ」
「店長の姪御さんだもん! 絶対に大丈夫。店長って熊みたいな外見とは裏腹に凄く優しい人だから。だから大丈夫だよ。柚月さん」
「え?」
フワッと凪に優しく抱きしめられた。
「だから泣かないでもいいよ。柚月さん」
そう言われてやっと、自分が涙を我慢していた事に気づいた。凪の部屋に入った途端に気が抜けて、涙が勝手に零れる。その涙に自分でも驚いた。
零れそうな涙を我慢した事もないし、勝手に涙が落ちた経験もない。
凪や茶トラと共に過ごすうちに、私の心はどんどん強欲で自分勝手になってきているらしい。
「幸せになるよね? 白ウサギ」
「もちろんだよ」
「これでよかったんだよね」
「うん。絶対に」
私は凪の胸でワーワーと泣いた。
恥ずかしげもなく子供のように、いつまでもいつまでも泣いた。
泣くたびに私の中の何かが溶けて崩れて壊れていく――でも嫌じゃない。
凪の強引な行動も茶トラたちの横暴も、何もかも嫌じゃない。
そう優しく思える自分に驚いて、凪の服を握りなおしてまた泣いた。
「落ち着いた?」
「……うん」
泣いて、泣いて、生まれて初めて顔が腫れているのを体感する。
それに今さらながら凪の胸を借りて泣いた事が恥ずかしくなり、私は急いで凪の腕から抜け出そうとした。
「……凪?」
凪が離してくれない。優しくて弱そうな外見なのに、力が強くて、今さらながら凪は男の子だと思いあたって少し怖くなる。
「柚月さん……」
「な……何?」
もしかしてこのままキスされる? それどころか押さえつけられて力づくで……と怖くなって身構えていた私だったけど、凪が放った言葉は、そんな凡人の発想をはるかに超える言葉だった。
「一緒に住もうか? 僕達?」
「…………は?」
「一緒に住もうか?」
2度言った。どうやら聞き間違いではないらしい。
「何言ってるの?」
「だって、そうしたら2人でこの2匹を育てていけるよ! パパとママみたいに協力して!」
「人が聞いたら誤解する様な発言は止めようね!」
そう叫びながら、凪を突き飛ばして茶トラを抱え部屋に逃げ帰った。
「何……考えてるのアイツ?」
一緒に住む?
男女で? 恋人とかでもなくて?
犬の為に?
そんなのあり得ないと思う。でも凪はきっと本気だ。
だってアイツはいつでもバカ正直で素直で、思ったことを曲げずに話すから。
「バカだ。本当にバカだ」
素直な人間と感情に乏しい人間では、圧倒的に素直な人間の方が強い。
強くて眩しい光に惑わされて誘われて振り回されて、暗い部分のある人間に無理やりその光を浴びせかける。
そしてその光を浴びた人間は、自分も光の中で生きているのだと勘違いするのだ。
勘違いを本物に出来る人間なんて、ほんの一握りで、大多数の勘違い人は、光を失った途端に、また自分という巣穴へと舞い戻ってこもる。
凪の光は私を照らしてくれるし、優しく温かい方へと導いてくれている……けど。
同棲なんて絶対にダメ!