犬と私の1年間
犬の考え。
 一緒に住もう発言から逃げ帰った日から数日、私は激しく凪を警戒していたけど、当の本人は、その問題発言について一切触れては来なかった。


 どこまで本気だったのか、どういうつもりだったのか、その真意が全く理解出来ずにいる私の心を置いてけぼりにして、季節はゆっくりと進む。そしてとうとう梅雨が明けて、本格的な夏の日差しがギラギラと差し込むようになった。


 もう夏が始まったのだ。






「柚月さんは試験いくつあるの?」

「……12」

「あっ! 僕は10。やったね! 勝ったね」

「負けてるよね」

 凪とバカ話をしながら、凪の部屋で地道に試験勉強をしていると、ノックの音が聞こえた。

 玄関を開けると、そこには久しぶりに見る大家さんの姿があった。

「…………犬、まだいるよね」

 大家さんのオーラが怖い。これは相当怒っていらっしゃるに違いない。

「……約束憶えてるわね?」

「はい。夏までに……」

「梅雨明けしたし、もうそろそろ、どうするかお返事を聞かせていただけるかしら? こちらにも都合があるしね」

 大家さんの視線が凪と私と犬達を交互に刺して、痛いほどの圧迫感で私たちを責め立てる。

「とりあえず、すぐに住む所を探しますので、8月末まで待って貰うって訳にはいきませんか?」

 私はびっくりして顔を上げた。凪は私に相談もなく、出て行くことを決めていたのだ。

「8月末までは無理ね。今月中」

「試験もあるんです! 終わったらすぐに探しますから!」

「無理ね」

「そこを何とかお願いします」

 凪が大家さんに頭を下げるたびに、胸がズキズキと痛む。

 これはもう凪1人だけの問題じゃない。

 絶対に違うんだ。

「あの! 大家さん!」
 
 絶対に絶対に、凪だけの問題じゃないんだから。







「いいの? 柚月さんまで出て行くって言ちゃって……」

「もういい。吹っ切れた。凪だけ出て行って、今さらここに1人で住もうとか思わない」

「でも、柚月さんの声援のおかげで、なんとかここにいられる期限が延びたね」

「2週間だけね」

 お盆過ぎまで。これが大家さんが譲歩してくれた最大の日程だった。8月分の家賃は貰うと声高々に宣言されたから、こちらとしても痛み分けの結果なのだけど。

「どうしようか……」

 こぼれ落ちそうなため息を飲みこんで必死に答えを探そうとするが、事はそう簡単ではない。

 ペット可能なマンションぐらいはあるだろうけど、引越し資金に敷金に礼金。何十万単位でお金が飛んでいく。それに、引っ越す事を親になんて説明すればいいのか、わからない。

「まずは、試験だよ。それから家を探して、なんとか引越しして、お金は……」

 お金は……で黙ってしまう凪。私にしろ凪にしろ、親に仕送りをしてもらってる身。決して裕福な訳ではない。

「取りあえず、目の前の試験を片付けよう。そうしないと引越しも資金集めのバイトも出来ないよ。凪」

「……だね」

 そこから私達は無言で、友達に借りたノートを写し始めた。






 大家来襲から大学入学後初の前期試験という試練を受け、脳と体がボロボロに疲れた私は、バッグを投げ捨ててベッドに倒れこんだ。

 倒れこんだ私の上に茶トラが乗り、心配そうにワンワンと鳴く。

「大丈夫。茶トラ。ちょっと疲れただけ。心配しないでもいいよ」

「クゥーン……」

 私の鼻先をくすぐる様に舐める茶トラをギュッと抱きしめた。

「次は新しいお家探しだね。今度は隠れなくても堂々とお散歩に行けるお家にしようね」

「ワンッ!」

「そっか。茶トラも嬉しいよね。どんなお家がいいかな?」

 脳裏に古い民家で庭付きの絵が浮かぶ。その民家の庭先で駆け回る茶トラと灰色狼。そして、その2匹を嬉しそうに見つめる私と凪が……。

「って! 何考えてるの私?」

 その絵はもう同棲じゃない! 熟年夫婦だ!

「……バカバカしい」

 大学生の私に出来る事なんて限られている。家賃と相談しながらペット可の賃貸物件を探す。この際大学までの距離は考慮しない。

 生活出来るかどうかが全てだ。茶トラも養っていかなければいけないし。

 決意を固め、早速実行を起すべく、私は下のコンビニに行って、住宅情報誌とアルバイト情報誌を購入した。
  




「短期で日給がいいのは……やっぱり夜か」

 夜のバイト。それはもちろん日給が破格にいい。これなら数日間で引越し代ぐらいは捻出出来そうだ。

 問題は私に務まるかどうかだけ。

 未成年云々以前に、私には愛想という大事な部分が決定的に欠けている。

 知らない男の人と笑って話して、しかも甘えるなんて、生まれ変わっても無理だと思う。それでも……。

「この子の為に、やるしかない」

 甘えて膝に乗っている茶トラを撫でながら決意する。

 体験バイトだけでも時給が出るのを確認した私は、意を決して携帯に手を伸ばす。そんな私の決意をあざ笑うかの様に部屋の扉をドンドン叩く音が聞こえた。こんな無粋な音を鳴らす知り合いは1人しかいない。

「何? 凪?」

「これ! これ見て! 時給が凄くいい! 僕ここで短期バイトする!」

 私と同じアルバイト情報誌を片手に凪が立っていた。その指が指し示すバイト先が「ホスト募集」

「凄くない! 僕、頑張るよ!」

 私は凪と同じ思考なのか、とちょっと凹む。

「取りあえず、凪には無理だと思うよ」

「何で? 僕だって頑張ったらきっと大丈夫だよ」

 ため息が漏れる。

「ちょっと、上がって」

 マンションの廊下でする話でもなかろうと、凪を室内に導いて、コンコンとお説教を開始した。

「あのね、ホストって大変なんだよ。女の人に貢いでもらって、それが普通に感じるぐらいの神経がないと無理。女の人は本気で凪が好きになって貢いでくれるんだよ? あんたそれを鼻で笑ってあしらえるの?」

 黙り込む凪の視線の先には、先程私が開いていたバイト先が載っていた。

「じゃあ、柚月さんは平気なの? 知らないおっさんにベタベタ触られながら、笑って相手に出来るの? それこそ僕、嫌だよ。柚月さんにそんな無理させたくないし、そんな事して欲しくない」

「無理だって自分でもわかってる。でもそれ以上に女を騙して貢がせる様な凪は嫌。見たくない」

「僕だって無理している柚月さんは見たくない。だから僕がバイトに行く。柚月さんは引越しの準備と、犬達の世話を頼むよ。絶対に絶対に引越し代ぐらい稼いでくるから!」

「ダメ! 凪ばかり負担を……」

 そこまで言って気づいた。

 何だか会話がおかしい気がする。

 どっちが稼いでくるとか、世話をするとか、何? 



「ねえ、凪? 私達別々の場所に引越しするんだよね。2人分の引越し代を稼いでくるって事?」

「え? 一緒の場所でしょ? だからトラックは1台で」

「…………え?」

「だって、僕達はもう犬達のパパとママだよ! 一緒に暮らさないと! あれ? 僕、大家さんに柚月さんが一緒に出て行くって言った時に、一緒に住むものだと思って……。あれ? 違うの? 何で?」


 あれ? 違うの? 何で?

 って、こっちが聞きたい!


 物凄く不思議そうに、こちらを見つめる凪の考えが、やはり私には全くわからなかった。






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