寂しさを抱いて
タイトル未編集

第一章 桜花

第一章 桜花 ①
 
 桜が切られた。
 それはもう、“衝撃”以外の何ものでもなかった。
 昨日までそよそよと風に揺れて、瑞々しい青葉が光を受けて輝きを放ち、揚々と生きていた桜が、目を覚ますと幹の半分を残して上の方は切られ、見るからに無残な姿になっていた。
 一体なぜ、こんなことになったのだろう。
 半分になった桜は、“半分”であること以外は何の変哲もなく、まだついている青葉を依然として光らせていた。

 私がここに引っ越してきたのは今から十五年前のことだった。当時はまだ小さかったため、お人形の家みたいに可愛らしい一軒家の正面に葉を茂らせ、花を咲かせる桜に、目もくれていなかった。
 でも、小学校、中学校、高校へと学年が上がるうちに桜というものの真の美しさを感じるようになっていったのだ。
 それなのに、私が高校三年生になったばかりのある朝、
「あれ…?」
 ふと窓の外に目をやると、桜は例のごとく半分になっていた。
「お母さーん、大変!」
 私が「大変、大変!」と言っている間、母は「まあ」とか「あらあら」とかそんなことしか言わなかった。母はもともと温厚な人なので、いつも何が起きてもおっとりペースなのだ。
「桜、もう見れないのかなぁ…」
 私は県外の大学を受験するつもりなので、来年には家から出ていく予定で、あと一回だけ桜も見られるはずだったのに。
「楽しみにしてたのに」
 私が落胆している間も、母は
「来年までには大きくなるといいわねぇ」
 なんて、あるはずもないことを穏やかな口調で言っていた。

 ***
 
小学生にだって、学校という社会があり、その中で何とかして自分の居場所を見つけ、周囲から外れないように上手く生きていかなければならない。
 私も、そんな小学校生活を送っていた。
「では、多数決を行います」
 黒板には「レクレーション決め」と書かれた横に、「鬼ごっこ」「ドッジボール」「大繩」など生徒が提案した様々な遊びが並んでいる。
「では、鬼ごっこがいい人は手を挙げてください」
 男子一〇人、女子一五人が手を挙げたところで、私はそっと自分の手を挙げた。全部で四〇人のクラスだから、多数派で鬼ごっこに決まるだろう。
「はい、二六人賛成なので鬼ごっこに決まりです」
 そうして私はほっと息を吐くのだ。
 こんなふうに、多数決では一番人数が多いところに自分の意見を合わせ、給食の余りでジャンケンなんかしておかわりを欲せず、勉強もそこそこ頑張って、放課後は友達と一緒に遊ぶ。
 常に目立たず一人外れることなく皆に合わせ、その中で楽しいことを見つけて過ごしていく。それが正しい学校生活の送り方だと思っていたのだ。
 でもそんな“平凡な”生活を目指す私にとって、大変な事件が起きた。
 ある日学校に行くと、私の隣の席の机にひどい落書きがされてあったのを見た。
 出ていけ
 犯罪者の子
 私が驚いて周囲を見回すと、教室の隅の方で四、五人の女の子がくすくすと笑っているのに気付いた。
「あーあ、見ちゃったよ」
「どうする?」
「そうねぇ、美(み)桜(お)もうちらに入れば?」
「そうだね、それがいい」
 彼女たちは笑いながら私のところまで来て、私の腕をつかんで引っ張った。
「ちょ、ちょっと…」
「美桜、あんたも一緒にあの子無視しよう」
「え、待ってよ。私はそんなこと…」
 私の儚い抵抗も、彼女たちの前では全く無意味なもので、私はいつものように彼女たちに“合わせる”しかなかったのだ。
「よろしく、美桜」
「う、うん…」
 仕方ない、適当にやり過ごそうと思って私は渋々頷いた。
 その後クラスメイトたちが次々と登校してきて、当然のように隣の席の、山里(やまざと)蒼(あお)衣(い)も自分の机のところまで来て立ち止まった。
 私は居たたまれなくなって、顔を伏せて横目でちらっと隣をうかがった。私はてっきり、彼女が傷ついていると思って覚悟をしていた。
 それなのに、彼女は違った。
 蒼衣は目を丸くして机の落書きを見つめたあと、消しゴムでごしごしとそれを消し、それから何事もなかったかのように静かに席について私の方に首を傾け、淡く微笑んだのだ。
 その瞬間、私は胸をぎゅっと掴まれたような感じがして、咄嗟に彼女から目をそらした。
 あれは何だったのだろう。
 なぜ蒼衣は笑ったのだろう。
 そんな疑問が一日中頭の中をぐるぐる駆け巡り、何とも言えない気持ちで胸が疼いた。
「今日はあの子のきれいなハンカチを取ってやった」
「うわばき隠してやった」
「今頃泣いてんじゃない?」
「そうかもね」
 そんなふうに私の上っ面の“仲間”たちが日々蒼衣をいじめている間、私はやはり彼女たちに大人しく同調しながらも、蒼衣のことを気にしていた。
 蒼衣は最初の時と同様に、何をされてもいつも眉を下げて笑っていた。まるで彼女らの許しがたい行為さえ抵抗なく受け入れているようで、そんな蒼衣を見て彼女たちは余計に腹が立ったのだろう。
 いじめは日に日にエスカレートしていって、クラス中の誰もがいじめを止めたいけど止められない、仕方ないという風に見て見ぬふりをする雰囲気が漂っていた。
 私はとうとう見ていられなくなって、蒼衣に話かけたのだ。誰もいない、夕暮れ時の教室でのことだった。
「…ねぇ、山里さんはどうしていつも笑っているの」
 いじめる側にいる私がこんなことを訊くのはおかしいと思ったが、訊かずにはいられなかったのだ。
 私に話かけられた蒼衣は、少しの間驚いていたが、やがていつものように淡く微笑んで言った。
「笑っていれば…何も辛いことはないって思えるから」
 彼女の声は驚くほど澄んでいて、優しい感じがした。
「で、でもっ…辛い時は泣くべきだよ!辛いって言った方がいいよ」
 なぜだか分からない。蒼衣を見ていると、彼女があまりにも不憫に思えてならなかった。
「ううん。私は全然辛くないの」
 教室のカーテンが外から吹く風でひらりとなびき、西日が彼女を照らした。一瞬だけ橙色の光に染まった彼女は、いじめられっ子とは思えないほど綺麗で、透き通るような儚さを身に纏っていた。
「どうして……」
 どうして、そんな風に笑えるのだろう。
 私は彼女みたいにはできない。楽しい時に笑うし、悲しい時はすぐに泣いてしまう。そんなに強くはなれない。
「高木さん」
「は、はい」
 彼女が私を呼び、私ははっとして彼女を見る。彼女はとても穏やかな表情で私を見ていた。
「世の中きっと辛いことも理不尽なことも受け入れられないこともたくさん…たくさんあるから、私はその中でも転ばずに生きたいだけだよ」
 それは、一二歳の私にはあまりに大人びた言葉で、彼女は一体何者なんだろうと本気で思ってしまった。
 ただ一つはっきり言えることは、私はもう二度と彼女をいじめる側にはなりたくないということだった。

 
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