寂しさを抱いて
第二章 雨雫 ⑦

 次の日から、私は蒼衣と一切口を利くことも、顔を合わせることもしなくなった。昼休みは私が教室からでなくなったので必然的に私は陽詩ともほとんど会わなくなった。陽詩は時々心配して一人で一組に来てくれた。彼女によると、蒼衣は私の話をしなくなったということ以外は以前と何ら変わらずに、陽詩ともちゃんと話をしているようだ。
「でもね、授業中とかずっと外見てて、先生に当てられてもぼーっとしてることが多いんだ。前は授業に集中して質問にも即答してたのに。やっぱり美桜ちゃんのこと、気になってるんじゃないかな……」
「そんなことあるわけないよ」
 蒼衣は私が嫌いなんだ。だから蒼衣が授業に集中していないとしたら、それは私から離れられて肩の荷が下りて気が抜けてしまっただけだろう。
「蒼衣は…私のこと大嫌いって言ったの。私をずっと騙してたんだよ。だから私も蒼衣が嫌い。それだけのことだから、陽詩は心配しないで」
「でも……」
 陽詩は腑に落ちない様子で一組から去っていった。
 蒼衣が本当は私のことをどう思ってるかなんて関係ない。陽詩は昨日の彼女を見ていないから何とでも言えるんだ。蒼衣のはっきりとした私への拒絶は、昨日の彼女を思い出せば一目瞭然だ。
「そっちがそっちなら、こっちも無視してやるんだから……」
 それからというもの、陽詩が来てくれる時でさえ私はムスッとした顔をしていたので、彼女もだんだん私のところに来てくれなくなった。でも私は、陽詩にあまり迷惑をかけたくなかったので、それでいいと思っていた。
 蒼衣とはたまに廊下ですれ違ったり、通学路ですれ違ったりしたが、その度に二人とも下を向いて速足で立ち去る、ということが続いた。
 ついこの間まで演劇部で一緒に舞台に立つために仲良く練習をしていたことが、嘘みたいに私たちはどんどんすれ違っていった。
 そうこうしているうちに、クラスで私をよく思っていなかった連中も、私と蒼衣の仲違いに感づき始めて、これはチャンスだと言わんばかりに私への総攻撃が始まったのだ。といっても、今更クラスでハブられようが持ち物を壊されようが、私には大したダメージにはならなかった。私にとって親友を失ったこと以上に辛いことはなかったから。
 テスト期間中、何をされても動じない私に、腹が立ったのだろう。やつら(・・・)はとうとう私にとっての重大事件を引き起こした。
 その日はテスト最終日で、私と蒼衣が口を利かなくなってちょうど一週間が経過した日だった。その日まで部活は休みだったので、ほとんどの生徒は昼間に帰っていたが、私は演劇部で使う次の脚本を書くために一人教室に残って仕事をしていた。
 脚本作りに熱中していたせいで、かなりの時間が経っていることに気がつかず、ぐーっと背伸びをして窓の外を見るといつの間にか日が暮れて西日が教室に差し込んでいた。
 そろそろ作業をやめて帰ろう、と思った私は荷物を片付けて帰路についた。テスト最終日の夕方なので、周りには中学生はおらず、出会うのは小学生ばかりだった。
 やがて青鳥川の橋までたどり着くと、私は何だか切ない気持ちになって通学鞄を肩から下ろし、欄干に肘をかけて夕日を眺めていた。ちょっと前まではここで蒼衣と大切な話をして笑い合っていたはずなのに、今の私はひとりぼっちで遠くを見てるなんて。
 世の中ほんと上手くいかない。
 上手くいかないことで溢れかえってる。
「はぁ…」
 溜息なんかついたら幸せが飛んでっちゃうよ、と私に注意してくれる彼女も今はおらず、私は好きなだけ気分を沈めて溜息をついた。
「はぁぁ…」
 何度も何度も、わざとらしく深く息を吐く。そうしていればいつか吐く息もなくなって、苦しくなって自然と上を見ることができると思ったから。
 それから何度溜息をついたか分からない。心の中が空っぽになってぼーっと夕日を眺めていた時だった。
 背後に誰かが近付いてくる気配がして、我に返った私は咄嗟に「あおい?」と呟いて振り返った。
 が、そこにいたのはずっと溜息の原因になっていた彼女ではなく、クラスメイトの七瀬いつきと、彼女と仲の良い谷口真美、石井香奈だった。三人とも私と同じ小学校だった、私の“敵”。
「こんなところで何黄昏てんの。青春ドラマの主人公気取り?」
 七瀬いつきが喧嘩を売るような口調でそう言った。実際喧嘩を売っているのだが。それだけなら私も相手にせずに無視して帰っていたが、彼女の手元を見た私はハッとして思わず叫んだ。
「ちょっとそれ…なにすんの!」
 彼女の手に握られていたのは、私の筆箱。それには蒼衣とお揃いのピンクのうさぎがぶら下がっている。私は自分の足元を見た。さっき何気なく下ろした鞄の口が開いている。どうやら私がぼーっとしている間に彼女らがこっそり鞄から筆箱を抜き取ったようだ。
「これ、山里とお揃いのストラップでしょう?」
「そうよ、返して」
「あれぇ~?おかしいなぁ。高木は山里と絶交したんだよね。だったらこれもいらないよね??」
「くっ……」
 そう、私は蒼衣と喧嘩して、口を利かなくなった。だからもう蒼衣との友情の印なんていらないはずなのに。それなのに、私は今目の前でストラップを筆箱から引きちぎって嫌な笑みを浮かべている七瀬いつきや、その後ろで腕組みをして立っている二人がこの上なく憎らしい。
「真美、パ~ス!」
 七瀬いつきがウサギを後ろの谷口真美にひょいっと投げた。
「はーい、香奈」
「ナイス!いつき!」
 三人はウサギをまるでお手玉のように投げ合ってきゃはきゃは笑っている。私は悔しくて唇をぎゅっと噛む。
痛い。唇がひりひりする。しょっぱい、鉄の味がする。
 そして何より、心が痛い。
「やめて…返せぇ!」
 とうとう我慢できなくなった私は、今ウサギを真美に向かって投げようとしたいつきを掴みにかかった。
「ひゃっ、なに、すんのよ!」
 七瀬いつきは私よりはるかに強い力で私を押のけて、ウサギを持った右手を高く上げた。 
 彼女に押のけられた私は、彼女の足元にドサッと手をついて倒れる。その瞬間、七瀬いつきは高く上げた右手で、ウサギを川に向かって力いっぱい投げ捨てた。
「あっ……!」
 私は倒れたまま、何もできずに七瀬いつきの悪行を見た。彼女が腕を振り上げたあと、咄嗟に立ち上がった私は欄干から身を乗り出して下の青鳥川を見たけれど、ウサギは私の目には映らなかった。
「ははっ!ウサギ、捨てちゃったよ。まあでも、ウサギが惜しいならまた同じの買えばいいしね。じゃあネ」
 彼女らはそれだけ言うと、その場から去っていった。
 私には彼女らの小憎らしい言葉も耳には入ってこず、ただ無造作に転がった筆箱を、鞄に入れて小さく歩き出した。
 あのウサギは……蒼衣との友情の印だった。
 でも彼女と口を利かなくなった今は、七瀬いつきの言う通りもう“いらないもの”だ。
 だからあれがなくなったとしても、私は落ち込む必要なんてない。
 それにウサギが川に落ちた時、ポチャンという音はしなかった。それぐらい、ちっぽけなものだったんだ、きっと。私たちの関係も、何もかも。

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