寂しさを抱いて
第二章 雨雫 ⑨

「はぁ…はぁ…」
 陽詩と別れた私は精一杯足で地面を蹴って走った。
 辺りはもうすでに真っ暗で、私は数メートルおきにある街灯を頼りに蒼衣の家に向かった。
「あ…ここだ」
 暗くてよく見えないが、辛うじて読み取れた「山里」という表札の前で立ち止まり、深く息を吸ってから私は玄関のチャイムを鳴らした。
 夜逃げ前にやって来た訪問者に戸を開けてくれるか、はっきり言って不安だった。
 しかし、しばらくして玄関から顔を出してくれた蒼衣を見た途端、私の不安も一気に吹き飛んだ。
「蒼衣……」
 覗き穴でも見たのだろうか、出てきた蒼衣の手には七瀬いつきによって捨てられた白いウサギのストラップが握られていた。
「……橋に行きましょう」
 ようやく蒼衣と話ができると思って口を開きかけた私をよそに、蒼衣はそう言った。
「う、うん」
 まあ確かに、家の前で話なんかしてたら蒼衣の両親に聞こえるだろうし、それに近所の人にだって見られる。
 私は蒼衣の意見に同意して、二人で青鳥川の橋に向かった。
「…ひなちゃんから電話があったの。美桜が来るって…」
「え、あ、そうなんだ。だからそれ持ってきてくれたんだ…」
「うん。……これ、七瀬さんが投げ捨てたの見てたから」
「…して…」
「え?」
「どうして…そのウサギ、蒼衣は探してくれたの…?どうして、大嫌いな私なんかのために、危険を冒してまで川に入って探してくれたの?」
「ううん、私知ってるよ。蒼衣は…蒼衣は私のこと嫌いなんかじゃないよね。ずっと嘘ついてたんだよね…。一体どうしてあんなこと言ったの…?」
 ずっと俯いていた蒼衣が、はっとして私を見る。
 彼女の大きな瞳は涙が滲んでいて、一度瞬きをした途端に涙は大粒の雫となってポタポタと地面に落ち始めた。
 それから彼女はぎゅっと目を閉じ、手をグーで握りしめて力いっぱい叫んだ。
「だって…、だってそうしなきゃ、お別れするの辛いじゃない!私は家族で誰にも内緒で夜逃げして…きっと美桜にも何も言えなくて…。そうしたら私たちの友情なんか、粉々になっちゃうっ!私たちの関係、いつか壊れてしまうなら…自分から壊した方がマシだって思ったの‼」
 蒼衣は自分の中に溜めていた全ての感情を、心の叫びをさらけ出す。
「美桜に嫌いって言ったら、美桜も私を嫌いになってくれるはずだって思った…!私のこと嫌いになってくれたら…私が突然消えても、美桜も私も悲しくないって!」
 普段はどちらかと言えば大人しいタイプの彼女が、苦痛に表情を歪め激しい荒波のように言葉を吐き出す。
「でも結局ダメだった…。私、ひなちゃんに言われたの…。蒼衣ちゃんは美桜ちゃんのこと本当に嫌いなの?って…」
 ええ、そうよ。私は美桜が嫌い。
 …そう言おうと思ったのに……。
「私は何も…何も言えなかった。だって…言えるわけないじゃない…。美桜のこと嫌いだなんて…ひなちゃんにまで言えるわけない…。だって美桜は私の親友なのに…!私は美桜が大好きなのに」
「蒼衣……」
 彼女は泣きながら、慟哭しながらわっと手で顔を抑えてその場にへたり込んだ。
 最初は、彼女がどうして「好き」なのに「嫌い」と言って本当の気持ちを殺してまで我慢するのか分からなかった。
 でも、今目の前で本音をさらけ出す彼女を見てやっと私は理解した。
 だって痛い。
 蒼衣にとっては、私と仲違いすることより心を通わせたまま別れの言葉も言えずに離れ離れになるのが辛かったんだ…。
「文化祭の前日…お父さんとお母さんに引っ越すことになったって言われた時、目の前が真っ暗になった…。真っ先に美桜のことが頭に浮かんで、美桜と会えなくなるかもしれないなんて考えられなくて。あんなに本番に向けて頑張ってきたのに、その時は明日が来なければいいのにって思った……」
 ああ、だからあの日、文化祭当日蒼衣に会った時彼女に元気がないように見えたのか。
「私…私は…美桜に、何も返してないっ…」
「返してないって…?」
「美桜に、何も恩返ししてないの」
「え、お、恩返し?そんなのしてもらうほどのこと、私してないよ」
「ううん。小学生の時、美桜だけが私の側にいてくれた…。私が一人にならないように助けてくれてた。それからずっと友達でいてくれた。それなのに私は、美桜になにもしてあげられないまま黙ってどっか行こうとしてたんだよ…。私は最低よっ…。勝手にいなくなろうとしたり、美桜のこと傷つけたり…私は美桜の友達失格ね…」
 なぜそんなふうに考えるのか。
 なぜいつも自分を悪者にするのか。
 蒼衣、分かんないよ。
 蒼衣は自分が思ってるほど、酷い人間じゃないんだよ。
「……ばかだなぁ」
「え…?」
 私の呟きが予想外だったらしく、蒼衣は涙で濡れた瞳で私を怪訝そうに見つめた。
「蒼衣、私はね、蒼衣のために生きてるんじゃないんだよ。私は自分のために生きてるんだ。だからさ、私って自己中でしょ?自己中な私に、蒼衣が返さなきゃならない恩なんてないんだよ」
「じゃ、じゃあ…美桜は私のこと嫌い…?」
 ああ、そうなるのか。
 蒼衣は私なんかよりずっと大人で頭もいいと思っていたけれど、本当は私と同じようなところもあったんだ。
「そんなわけないでしょ。私は私のために生きてる。だから、私は大好きな蒼衣とずっと友達でいられる人生を生きるよ。誰のためでもない、自分のためにね」
「美桜っ…」
「だから蒼衣も、自分のために生きていいんだよ。私が傷つくとか、誰かが悲しむとか、そりゃあちょっとは考えなきゃいけないけど……でも、最後は自分が納得するようにしなきゃだめだよ。蒼衣はちょっと、周りが見えすぎだから…もっと自分を好きになって、自分を生きて」
 そうだ、私はこれが言いたかったんだ。
 机に落書きされても、グループに入れなくても、蒼衣はただ寂しそうに笑ってるだけで決して泣かなかった。確かにそれは彼女が強かったからかもしれない。でも、本当は…彼女は自分のことをどうでもいいと思っていたのではないのか。自分の存在を肯定できないから、自分が何をされても何とも思わないようになってしまったのではないだろうか。
 自分を好きになって、蒼衣。
 悲しいことがあったら泣いて。
 嬉しいことがあったら私に教えて。
 それぐらい、遠くにいたって簡単にできるから。
 ずっと苦しそうに顔を歪めていた蒼衣が、次第に優しい表情を取り戻していく。蒼衣の足元は流れ落ちた涙の雫できらきら光っていた。
 そうして泣き笑いの顔をして、蒼衣は最後にこう言った。
「私、美桜にまた会えるように笑って生きていく」
ああ、やっぱり。
蒼衣は笑った顔が一番可愛い。
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