寂しさを抱いて
第四章 寂寞 ⑫

 私の家の前に辿り着いた時、すでに近所の街灯もほとんど消えて、辺りは浜辺第一公園で感じた闇よりももっと深い闇と静寂に包まれていた。
「美桜の家に連絡入れといたから、おばさんもきっと家に帰ってるはずよ」
「うん、ありがとう蒼衣。本当に、ありがとう」
「お礼を言うのはまだ早いわ。さあ、後は美桜が頑張って前に進んで。私は応援してるから」
 彼女はそう言うと、私の背中を軽くポンと叩いた。大丈夫、きっと上手くいく。彼女の心の声が聞こえて、私は両手をぎゅっとを握りしめてから呼吸を整え、それからゆっくりと玄関の扉を開けた。
「ただいま…」
 そう呟きながら靴を脱いでそろそろとリビングまで向かった。普段なら二人は寝ている時間だったが、今日に限っては電気も付けたままで私の帰りを待ってくれているようだった。
「み、美桜!あんた、こんな時間までどこに行ってたのよ⁉お母さんがどれだけ心配したことか!おかげで山里さんのとこにまで迷惑かけちゃったじゃない!」
 帰ってきた私の姿を見るなりお叱りの言葉を述べた母の顔には、怒りというより安堵の表情が浮かんでいた。
「ごめんなさい…」
「全くもう…。でも、今回は私も悪かったわ…。美桜の気持ちを全然聞いてあげなかったんだもの。美桜、ごめんなさいね」
「ううん…私も、勝手なことばかり言ってごめんなさい。私はお母さんやお父さんを困らせたいわけじゃなかったの。ただ本当に本当に……ねえ、お父さん」
 私は先程から黙りこくって少し戸惑うように私を見ていた父の方を向いて言った。
 私の気持ちを。
 本当の心を。
「私はただ…喜んでほしかっただけなの。私は昔からやりたいことなんかなくて…ただお父さんやお母さんと平和に暮らしてきただけだったから…。将来何をやりたいかも決められなくて、二人が望むようにしようって。でもね、そんな時にやっと夢が見つかって、初めて自分から『これがやりたい!』って思えたんだ。それを二人に教えたら、きっと喜んでくれると思った。だからそんな私の気持ちを頭ごなしに否定されたことが悔しくて、伝えられないことがやるせなくて、自分に腹が立ってました。だから、あんなふうに家を飛び出してごめんなさい。そしてどうか、私の夢を応援してください」
 私は精一杯の謝罪の気持ちを言葉に乗せて、深く頭を下げた。いつになく真剣な私の様子を見た母が「まあ」と口を押える。
 そして、肝心の父はというと。
「…頭を上げなさい」
 いつもと同じ、厳格な声でそう言った。しかし、言われた通りに頭を上げた私が見た父の表情は、私が今まで見たどんな父よりも穏やかで優しい顔をしていたように思う。
「お前の気持ちはよく分かった。父さんも、母さんがお前を探しに家を出て行った後に考えたんだ。もっとお前に言うべきことがあったんじゃないかって。否定するだけじゃない、何か別のやり方があったに違いないと。確かにお前の希望は簡単には通せないものだったが……でも、お前が本当にやりたいことなら、父さんも母さんも誰も止められないよ。お前の気持ち、蔑ろにしてすまなかった。父さんを許してくれ」
 そう言って父は私がさっきそうしたように、いや、それどころかより深々と私に向かって頭を下げた。
 突然のことで、私だけでなく母もその場に固まってしまった。普段は全く感情を表に出すことのない父が、あろうことか娘に対して頭を下げるなんて。
 でも、そうだからこそ私はこの父の行為を信じることができた。父が本気で私に謝っていることを心から感じられた。
「もういいよお父さん。分かってくれたならそれでいいんだ。私、この家の娘でよかった」
 そうして私たち家族はようやく一つになった。一八年も一緒に暮らしてきて、初めてお互いの心をさらけ出すことができた。
 ちゃんと口にすれば想いは伝わる。
 私の親友がそう言ってくれたように、本当に伝わる気持ちがあるのだと私はその時実感したのだった。

 ***

 あの日両親から画塾に行くことを許可してもらってから、週五日、放課後に画塾に通っていた。もちろん一般科目もやらなければならないので、授業中や家では必死に受験勉強をした。忙しすぎて本当にぶっ倒れてしまうのではないかという時もあったが、そんな時は親友の蒼衣や、今でも仲良くしている彼方と三人で気分転換にいつものソフトクリームを食べて気を紛らわせた。
 模試の結果を見て心が折れそうになった時もあったけれど、先生や家族に励ましてもらいながら私はなんとか受験を終えた。
 そして今日は私たちの高校、浜辺高校の卒業式。クラスの皆が集まるのは今日で最後だ。だから朝、教室に着いた後私はどことなく緊張していた。今日で最後なんだと思うと、周りの皆に対してどんな顔をすればいいか分からなかったから。
「おはよう、美桜」
 私が席に着いたところで不意に後ろから声をかけられた。もう何度彼女の「おはよう」を聞いただろうか。その声を聞くだけで、私はいつもの日常だと感じることができてほっとした。
「蒼衣、おはよう」
 私がそう言うと彼女は私の目を見てにっこり笑った。
「高ちゃん、やっちゃん、おはよう!あたしを忘れるんじゃないぞ~」
 憎まれ口をたたきながら三年二組の教室に入ってきたのは私たちのムードメーカー、彼方だった。
「おはようカナちゃん」
「あ、ごめんごめん。つい忘れたよ、おはよう」
「もー、高ちゃんってSなのぉー?」
 以前より長く伸びたポニーテールを揺らす彼女はやっぱり明るくて、私たちの最高の友達。高校生活を蒼衣や彼方と送れたことに私はとても感謝している。
「はいはい皆席着けー。他クラスのやつは自分の教室に戻れよ。もうすぐ卒業式が始まるから、廊下に並んで準備するように」
 担任の田中先生がそう言うと、彼方が「バイバイ」と手を振って二組の教室を後にした。
 先生は新調したスーツをピシッと着て、でもどこかそわそわしている様子が伝わってきて、私は思わず失笑した。
「先生緊張してる~」
「な…、まあそうだな。実は手汗がひどくてな、ハンカチを三枚も持ってきてしまった」
 私と同じように感じていた生徒の一人がツッコミを入れるとクラスがわっと笑いに包まれた。
 楽しい。
 今まで受験勉強に必死で忘れかけていたけれど、皆で送る学校生活は本当に楽しかった。それが終わってしまうのが寂しくて、きっと皆嘘でも明るい雰囲気に盛り上げたいと思っている。
「さあ、皆早く整列しろよ。他のクラスはとっくに並んでるぞ」
 先生の一声で私たちは急にきりっとした表情になって廊下に整列した。
 そして、浜辺高校の卒業式が始まった。
 校長先生や来賓の方からたくさんの祝辞をもらって、私たちはこの学校を巣立つ。定番の「仰げば尊し」を歌っている最中に周りで静かにすすり泣く声が聞こえた。私は涙は出なかったけれど、今まであったことを思い出して胸がいっぱいになっていた。
 浜辺高校では私にとって幸せな経験も苦い経験もすべてを学べた。そのことに精一杯の感謝を込めて。
 さようなら、私の大好きな場所。

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