寂しさを抱いて
第四章 寂寞 ⑭
浜辺高校を一通り回った後、私は小学校や中学校にも訪れた。知っている先生が数人いたので挨拶をしてそれぞれの学校をあとにした。家の近くの青鳥川の橋に着く頃にはもう日が暮れていて私は少し迷ったけれど、やっぱり橋を渡って彼女の家に向かった。これでもう最後だと思うと無性に寂しかった。
「こんばんは、蒼衣」
玄関から出てきた蒼衣の姿を見るなり、私はぎょっとした。彼女の目が充血していて、瞼も赤く腫れているのに気づいたからだ。
「美桜…こんばんは」
蒼衣は泣き虫なんかじゃないはずなのに、私を想って泣いてくれたのだろうか。
「橋に行こう」
私が蒼衣との場所に選んだのはやっぱりあの橋の上だった。私たちが何度も話して心を通い合わせた場所だ。
「もう、準備はできてるの?」
「うん、バッチリだよ」
「美桜のことだから向こうに着いた後で忘れ物に気づいたりして」
「私、そんなにおっちょこちょいじゃないって!」
「ふふっ、そうね」
蒼衣は眉を下げて寂し気に笑った。そういえば出会った頃の彼女も、いつもこんなふうに不完全な笑顔を浮かべていたんだっけ…。
「そうそう、カナちゃんも合格したんだってね」
「そっか、そうなんだ。気になってたんだけど何か聞きづらくてさ。でも合格したんなら良かった」
「私たち皆頑張ったもんね」
私も蒼衣も彼方も、本当によく頑張ったと思う。これだけは自信を持って断言できる。
「美桜…本当に明日行っちゃうんだね…」
不意に蒼衣が悲しそうにそう呟いたので、私もいよいよ別れの時を実感せずにはいられなかった。
「蒼衣、そんな顔しないでよ」
「分かってるわ。でも、今日だけは許して」
そこで彼女は突然ぶわっと涙を流して泣き出した。声を上げて、嗚咽を漏らしながらわんわん泣いた。私は彼女がこんなふうに周りも気にせず思い切り泣くのを見たことがなくて、正直焦ってどうしたらいいか分からなくなった。
けれど、何もしなくていいのだと、何となくそう思って私はそっとしておいた。泣きたいときに泣かないと、後で苦しくなることだけは知っていたから。
そんな私の気持ちを知ってか、彼女は泣くだけ泣いた。しばらく泣いて、もう流す涙もなくなって顔を上げた時、蒼衣の目がさっきよりもっと赤く腫れていて。
「蒼衣、ひどい顔っ」
思わず私はそう言った。
「な、なにそれひどいわ美桜…。私はこんなに悲しいのに」
そう言いながらも私たちは何だか可笑しくなって、今度はバカみたいに声を出して笑った。
「ふふっ」
「あはは!」
二人して年甲斐もなく大笑いして、私は笑いで眼尻から涙がそっと零れてきた。
「こんなに笑ったの、久しぶりね。こんなに泣いたのも、こんなに悲しくて楽しくてごちゃごちゃなのも久しぶり」
「そうだね、昔は私たちもこんな風に笑ったり泣いたりしてたんだろうなぁ」
多分人っていつからか純粋に大泣きしたり大笑いしたりできなくなるようにできているのだろう。久しぶりの感覚に、私たちは懐かしさが込み上げてきた。
「美桜、私の友達になってくれてありがとう」
不意に、彼女がそう言って私を見て笑った。相変わらず大きくて綺麗な瞳をしていた。
「ううん、私の方こそ蒼衣にありがとうをいっぱい言わなくちゃいけない。私が辛い時、挫けて立ち止まってる時、一人ぼっちで膝を抱えていた時、いつも助けてくれてありがとう。手を引いてくれてありがとう。私の側にいてくれて、本当にありがとう。私ね…」
最後に息をいっぱい吸って、ずっと続く青鳥川に向かって叫んだ。
「蒼衣のことが大好きですーー!」
「み、美桜…!」
「だからっ…だから…私は蒼衣を忘れません!
また会おうねー!…バイバイっ」
私は思いっきり叫んだ。きっと近所の人はびっくりしているだろう。隣を見ると、蒼衣は顔を真っ赤にして俯いていた。それから自分も大きく息を吸って恥ずかしそうに顔を上げて叫んだ。
「私も美桜が大好き!さようならっ‼」
***
家を出る時、ふと玄関先の桜の木に目をやった。
ここに引っ越してきた時からずっと、春になると桃色の花が咲き乱れていた桜の木。
結局、一年ではたいして成長してくれず、私の門出をその美しい花で祝ってはくれなかった。
まあ、当たり前か。
「美桜、荷物持った?財布と切符も!」
「ちゃんと全部持ったから大丈夫だって、お母さんは心配性だなぁ」
「だってあんた、いつもどこか抜けてるじゃない」
「抜けてるのはお母さんの方だってー」
駅まで見送りに来てくれた母はいつもより口うるさくてちょっと可笑しい。父はいつもと同じで難しい顔をして私と母のやり取りを見ていた。
「それじゃあ、気を付けてね」
「うん」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
「何か困ったことがあったらいつでも電話してね」
「分かってるって」
母は心配で仕方がないというふうに事細かく私に注意してきた。まあこれも母なりの愛情表現なんだろう。
それからすぐに構内アナウンスで私が乗る予定の電車が来たことが告げられて、私は改札をくぐった。
「お父さんお母さん、今までありがとう。いってきます、元気でね」
「いってらっしゃい。帰ってくるの待ってるわ」
「…気をつけるんだぞ」
二人は私が見えなくなるまで改札の前に立っていてくれていた。私は振り返らずに階段を上り、駅のホームに降り立つ。
さて、これで本当にお別れだ。
この生まれ育った町をいつか出て行く日が来るなんて、昔は考えもしなかったけれど。
だけどきっと、どんな人にもこうやって大好きな場所や大好きな人と別れなければならない時がやってくるのだろう。
でも、大丈夫。私の胸には、幸福な思い出がたくさん詰まっている。
だから、今はただ前を向いて進もう。
胸にいっぱいの、寂しさを抱いて。
【終】
浜辺高校を一通り回った後、私は小学校や中学校にも訪れた。知っている先生が数人いたので挨拶をしてそれぞれの学校をあとにした。家の近くの青鳥川の橋に着く頃にはもう日が暮れていて私は少し迷ったけれど、やっぱり橋を渡って彼女の家に向かった。これでもう最後だと思うと無性に寂しかった。
「こんばんは、蒼衣」
玄関から出てきた蒼衣の姿を見るなり、私はぎょっとした。彼女の目が充血していて、瞼も赤く腫れているのに気づいたからだ。
「美桜…こんばんは」
蒼衣は泣き虫なんかじゃないはずなのに、私を想って泣いてくれたのだろうか。
「橋に行こう」
私が蒼衣との場所に選んだのはやっぱりあの橋の上だった。私たちが何度も話して心を通い合わせた場所だ。
「もう、準備はできてるの?」
「うん、バッチリだよ」
「美桜のことだから向こうに着いた後で忘れ物に気づいたりして」
「私、そんなにおっちょこちょいじゃないって!」
「ふふっ、そうね」
蒼衣は眉を下げて寂し気に笑った。そういえば出会った頃の彼女も、いつもこんなふうに不完全な笑顔を浮かべていたんだっけ…。
「そうそう、カナちゃんも合格したんだってね」
「そっか、そうなんだ。気になってたんだけど何か聞きづらくてさ。でも合格したんなら良かった」
「私たち皆頑張ったもんね」
私も蒼衣も彼方も、本当によく頑張ったと思う。これだけは自信を持って断言できる。
「美桜…本当に明日行っちゃうんだね…」
不意に蒼衣が悲しそうにそう呟いたので、私もいよいよ別れの時を実感せずにはいられなかった。
「蒼衣、そんな顔しないでよ」
「分かってるわ。でも、今日だけは許して」
そこで彼女は突然ぶわっと涙を流して泣き出した。声を上げて、嗚咽を漏らしながらわんわん泣いた。私は彼女がこんなふうに周りも気にせず思い切り泣くのを見たことがなくて、正直焦ってどうしたらいいか分からなくなった。
けれど、何もしなくていいのだと、何となくそう思って私はそっとしておいた。泣きたいときに泣かないと、後で苦しくなることだけは知っていたから。
そんな私の気持ちを知ってか、彼女は泣くだけ泣いた。しばらく泣いて、もう流す涙もなくなって顔を上げた時、蒼衣の目がさっきよりもっと赤く腫れていて。
「蒼衣、ひどい顔っ」
思わず私はそう言った。
「な、なにそれひどいわ美桜…。私はこんなに悲しいのに」
そう言いながらも私たちは何だか可笑しくなって、今度はバカみたいに声を出して笑った。
「ふふっ」
「あはは!」
二人して年甲斐もなく大笑いして、私は笑いで眼尻から涙がそっと零れてきた。
「こんなに笑ったの、久しぶりね。こんなに泣いたのも、こんなに悲しくて楽しくてごちゃごちゃなのも久しぶり」
「そうだね、昔は私たちもこんな風に笑ったり泣いたりしてたんだろうなぁ」
多分人っていつからか純粋に大泣きしたり大笑いしたりできなくなるようにできているのだろう。久しぶりの感覚に、私たちは懐かしさが込み上げてきた。
「美桜、私の友達になってくれてありがとう」
不意に、彼女がそう言って私を見て笑った。相変わらず大きくて綺麗な瞳をしていた。
「ううん、私の方こそ蒼衣にありがとうをいっぱい言わなくちゃいけない。私が辛い時、挫けて立ち止まってる時、一人ぼっちで膝を抱えていた時、いつも助けてくれてありがとう。手を引いてくれてありがとう。私の側にいてくれて、本当にありがとう。私ね…」
最後に息をいっぱい吸って、ずっと続く青鳥川に向かって叫んだ。
「蒼衣のことが大好きですーー!」
「み、美桜…!」
「だからっ…だから…私は蒼衣を忘れません!
また会おうねー!…バイバイっ」
私は思いっきり叫んだ。きっと近所の人はびっくりしているだろう。隣を見ると、蒼衣は顔を真っ赤にして俯いていた。それから自分も大きく息を吸って恥ずかしそうに顔を上げて叫んだ。
「私も美桜が大好き!さようならっ‼」
***
家を出る時、ふと玄関先の桜の木に目をやった。
ここに引っ越してきた時からずっと、春になると桃色の花が咲き乱れていた桜の木。
結局、一年ではたいして成長してくれず、私の門出をその美しい花で祝ってはくれなかった。
まあ、当たり前か。
「美桜、荷物持った?財布と切符も!」
「ちゃんと全部持ったから大丈夫だって、お母さんは心配性だなぁ」
「だってあんた、いつもどこか抜けてるじゃない」
「抜けてるのはお母さんの方だってー」
駅まで見送りに来てくれた母はいつもより口うるさくてちょっと可笑しい。父はいつもと同じで難しい顔をして私と母のやり取りを見ていた。
「それじゃあ、気を付けてね」
「うん」
「ちゃんとご飯食べるのよ」
「うん」
「何か困ったことがあったらいつでも電話してね」
「分かってるって」
母は心配で仕方がないというふうに事細かく私に注意してきた。まあこれも母なりの愛情表現なんだろう。
それからすぐに構内アナウンスで私が乗る予定の電車が来たことが告げられて、私は改札をくぐった。
「お父さんお母さん、今までありがとう。いってきます、元気でね」
「いってらっしゃい。帰ってくるの待ってるわ」
「…気をつけるんだぞ」
二人は私が見えなくなるまで改札の前に立っていてくれていた。私は振り返らずに階段を上り、駅のホームに降り立つ。
さて、これで本当にお別れだ。
この生まれ育った町をいつか出て行く日が来るなんて、昔は考えもしなかったけれど。
だけどきっと、どんな人にもこうやって大好きな場所や大好きな人と別れなければならない時がやってくるのだろう。
でも、大丈夫。私の胸には、幸福な思い出がたくさん詰まっている。
だから、今はただ前を向いて進もう。
胸にいっぱいの、寂しさを抱いて。
【終】