BORDER LINE
母の薬指から銀の指輪が消えた日から、母は、夜遅くまで家に帰らなくなった。

父は、何も言わなかった。

ある晩、胸を焼かれるような不安に駆られた、私は、そっとベッドを抜け出して、ズルズルと帰宅した母を、フンズと抱き締めた。

「私は、ママのこと、大好きよ。」

既に、ベッドと、酒に呑み込まれていた母は、虚ろな眸を私に向けた。

———そうね、私もよ。カスミちゃんを、愛しているわ。

「ね、ママ、私をおいて、遠くに行っちゃったりしないわよね?」

———私は、ずぅっと、カスミちゃんのそばに居るわ。

今思えば、母のコトバは、付き合って三か月で破綻する恋人達のそれよりも、薄っぺらなものだったのかもしれない。

〝ずぅっと、一緒〟

確かに、母は、そう言ったはずなのに。

その一年後、母は、チャラついた、黒塗りの高級車男にくっついていってしまった。

———ごめんなさい。

———でも、毎日、毎日、同んなじことを繰り返しているうちに、私から、若々しさとか、美しさとか、そういうものが、ボロボロと零れ落ちていくのに堪えられないの。

別れ際、母は、悲痛な声で叫んだ。

父も、私も、何も言わなかった。

幼かった私は、母のコトバを理解し得なかったのだ。

今だってわからないままだ。

母の悲痛の叫びを聞きながら、私の心に残ったのは、一種の失望と諦念だけであった。

あぁ、ヒトって、こんなにもカンタンに嘘を吐けるのだなぁ、って。

あぁ、ヒトってキレーじゃないんだって。

母が出て行ってしまうと、

ちっとも母を引き留めなかったくせして、父は、俺が悪かったんだ、ごめんなぁ、と私に縋って、ボロボロと泣きだした。

私は、父を真似して顔を歪めてみたが、これっぽっちの涙も絞り出せなかった。

一緒になって、ワンワン泣いてやれない代わりに、父の肩にポンと手をのせ、

あんなやつ、どうだっていいじゃないの、と言ってやった。

それなのに、

〝どうだっていい〟女であるはずなのに、

———キレーなものを描きましょう。

母の口癖は、路肩のチューインガムみたいに、私の脳裡にこびりついている。

そして、私は、ヒトを描けなくなった。

背丈がのびるにつれて、私は、自分の心ん中にも、醜いものが潜んでいることを知った。

すると、私は、絵描きの心であるはずのキャンパスに、心の色をのせられなくなった。

結局のところ、私は、ヒトを、自身でさえも、信じられなくなったのだ。

そういうことだ。
< 41 / 62 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop