プリーズ・ミスター・ポストマン
プリーズ・ミスター・ポストマン
青南高校「郵便部」
「ふふふーん、ふふーん、ふふんふーん」
かの有名な、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の曲が、校内に爆音で流れる中、サビを鼻歌で歌いながら各教室を回るのは、私の幼馴染、結城恭一だ。私は彼を横目でちらっと見ると、肩から下げた赤いバッグの中から、最後の手紙を出して、恭一に渡した。
「これ、最後」
「お、サンキュー。えっと……美術部部室か。ここからだと、昼休み終了までには走っていかなきゃな」
私たちは、阿吽の呼吸でうなずくと、二人で走り出した。そして、
「校内静粛」
の貼り紙なんて、見えないことにした。
恭一と私の二人は、「郵便部」の部長と部員だ。たった二名の部活で、私は一人で「学内便」の配達をやっていた恭一を、「月に四回、学食でミニパフェをおごってもらうこと」を条件に、仕方なく手伝うために入部した。
「郵便部」は、この進学校「青南高校」で、生徒間の携帯でのやり取りを禁止するために、昼休みを使って「学内便」を運んでいる。もともとは、携帯なんてなかった時代の遺物で、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の曲が流れて、「学内便」の配達を知らせるのもその頃の名残だ。
「学内便」は、好きな便せんに封筒を使って(ハガキも可能だが、切手が印字されているタイプは不可)、一シート三十円で、購買部で売られている「切手」を買って、校内各所に設置された「ポスト」に投函する。あとは、私たちが放課後の時間を使って仕分けし、翌日昼休みに配達するのだ。「切手」代は、部の予算になるが、主に「切手」(正式名は当局をはばかって「切手シール」だ)のデザインをしてくれている、美術部員におごる経費となる。接待と言えば、まあそうだ。
だが、最近は様々な事件も起こり、保護者からの要求もあるため、校内での携帯使用がだんだん黙認され始めた。そうなると、壊滅的ダメージを受けるのが、わが「郵便部」だ。メールとSNSに圧倒され、日に日に「学内便」は数を減らしていった。それで、生徒会からも「郵便部不要論」が出る始末、いつ潰されるやらわかったものではない。
それなのに、この男、結城恭一は堂々としているといえば聞こえがいいが、何を考えているのやら、いつもにやにや笑っていて、配達のついでに校内の女子たちを口説いていく。女子たちも手慣れたもので、軽くあしらっている。私は彼の女好き、フェミニストぶりを知っているので、やれやれとため息をつくばかりだが、昔はもっとまじめだった。いつからだろう、こんな恭一になったのは……。
「はーい、『郵便部』でございますよ~。お手紙一通、しかとお届けに参りました~! 」
恭一は、部室のドアを開けておどけて言う。部室には、「切手シール」のデザイン監修をしてくれる講師の山崎先生がいた。
「おや、ご苦労様。僕に手紙? ……まさか、また亀崎先生では」
「ベンゼン先生ですよ」
恭一がにやにやしながら、手紙を先生に押し付けた。先生は、露骨に嫌そうな顔をしたが、生徒の前だと思ったのか、元のかっこいいポーカーフェイスに戻った。
「……いらない、と言っても、置いていくんだろうな」
「宛先人も宛先も不明ではありませんので」
私は静かに言い添えた。
「これは、ある意味『不幸の手紙』だな……」
山崎先生は、眼鏡の奥の、切れ長で涼し気な目を曇らせた。
亀崎先生――ベンゼン環に美を見出すところから、通称ベンゼン先生――は、「郵便部」の顧問である。ただし、オネエの化学教師、この山崎先生にほれこんで、実験室で惚れ薬の生成にいそしんでいるという噂がなきにしもあらずである。亀崎先生は、「郵便部」の仕事を増やして、存在意義を表に出してやろうとしてくれるのだが、その方法が、毎日毎日山崎先生に「恋文」を送りつけることであった。今までに配った手紙の数は、膨大なものだ。彼(女)の理屈は、
「苗字に同じ漢字が使われているなんて、運命よ、運命」
ということだった。もちろん、山崎先生は鼻もひっかけない。でも、そこがよいのだという。
「簡単に落ちない男ほど、恋心が燃え立つというものよ」
とは、当のベンゼン先生の言葉である。
「次の『切手』のデザインだが」
山崎先生が、「切手」の絵柄一覧が印刷された紙をひらりと見せてくれた。恭一はにっと笑ってのぞきこむ。そして、ぱんと手を打ち鳴らした。
「おお、いいセンス! かわいいですね! ハートにキラキラ星、……ん? これは……矢? 」
「キューピッドの矢だそうだ」
女子向けの「切手」だ。そもそも「差出人」は、文通が趣味の女子が多いので、このチョイスはいい。
その時だった。私たちが入ってきて開け放したままだった、美術部部室のドアの向こうから、何かが飛んできて、掲示板に刺さった。よく見ると、小さな矢に手紙が結び付けられている。
矢文だ!
「キューピッドの話の時に、矢文とは……タイミングぴったり、汝やるのう」
恭一は、どこかピントの外れたことを言っている。いや、もっと、危ないとか、なぜ矢文なのかとか、そういったことを心配してもらいたいものだ。時々時代がかった言い回しをする恭一に、山崎先生も苦笑している。
「掲示板に刺さってよかった。怪我がなくて」
私は、そう言いながら矢に近寄って、引っこ抜いた。矢に、達筆な毛筆でさらさらと書かれた手紙がくくりつけられているが、達筆すぎて読めない。それで、書道のたしなみもある山崎先生に、解読をお願いした。
「果たし状、だそうだ」
先生は、眼鏡の位置を指で直しながら、軽く言った。
果たし状……? いったい誰が。
「明日(みょうにち)放課後、決闘を申し込みます。そちらが負ければ『郵便部』は廃部とのこと、生徒会臨時閣議で決定いたしましたので、通知いたします。場所は体育館、方法はピストル、介添人は一人お付けになってください。それでは明日。
生徒会長 一ノ瀬 真生(まお) 」
生徒会長・一ノ瀬さんは、男装の麗人、校内では男子の制服を身に着け、一部の女子達から「お姉さま」と人気が高い。制服の件は、PTA会長の娘であるから、父親である会長のごり押しで許されたという。また、弓道部の部長でもあり、三段の腕前だそうだ。
そして、この「ピストルによる決闘」は、この高校が男子校だった時からの伝統である。もっとも本当のピストルを使うわけではなく、インクが仕込まれた弾丸を使った摸擬銃による決闘である。男装の麗人、一ノ瀬さんが好みそうな方法だ。
「まあ、本当につぶす気なんだな」
山崎先生が他人事のように言う。
「先日も、美術の授業の時に『親衛隊』の女子達を使って、『切手』のデザイン案を破り捨てていったからな」
「そんなに、邪魔なのかな」
ぽつりと恭一が言った。私はそっと言った。
「邪魔ではないと思うけど、時代の流れなんじゃないかな」
「だって、会長は矢文を使うし、決闘も申し込むじゃないか。俺たちが、昼休みを捧げて配達するのを邪魔しなくてもいいじゃないか」
「確かにそうだけど、一ノ瀬さんのことは予算かからないもの。私たちの場合、部活だからどうしても予算がかさむのよ、きっと」
「……そうか。それに……いや」
恭一は、唇をかんだ。私は、この機会に聞いてみた。
「どうして、そこまで『郵便部』にこだわるの。あんた、一人でもやり続けるって、前に言っていたよね。なにかあったの」
「まあ、明日の決闘で勝ったら、教えてやり申そう」
彼は元のにやにやした笑顔を浮かべて、果たし状を手にして、ポケットにねじり込んだ。
その時、顧問のベンゼン先生が自転車に乗ってやってきた。ちりんちりんとベルを鳴らしている。
「はいはい、『郵便部』存続の危機ね」
先生は、自転車を愛し、隣県から越境して自転車通勤をして、校内を自転車で走り回る異色の教師だ。階段はどうするのかといえば、かついで登り下りする。先生のたくましい筋肉質な腕が、ひらひらのレースのワンピースから見え隠れするのは、昼休みの名物である。もともと足が悪かったベンゼン先生のための特例だったが、足が治ってからも、自転車愛のための校内走行は止まず、校内一の学歴を持つ先生をよそに引き抜かれないための措置として、自転車走行が認められているとか。
「……亀崎先生」
山崎先生が、ふうっとため息をついて、ベンゼン先生の方を見ないように、窓の外へ視線をずらした。私は疑問を素直にぶつける。
「なぜおわかりなんですか」
「……まさか、盗聴しているんじゃないでしょうね」
山崎先生が、はっとして言う。ベンゼン先生は、
「さ、さあ、どうしてでしょうね~ 」
などと言いながら、話を元に戻そうとする。山崎先生は、しばらく考えていたが、ベンゼン先生の、
「『疑わしきは罰せず』です」
という、刑法の大原則の引用で、しぶしぶ引き下がった。……たぶん、山崎先生が正しいと思うのだが。
「……で、結城君は決闘に臨むの? 」
「そうですね~、仕方ないですよね~ 」
恭一がにやにや笑っているが、その笑みにはどこか悲しい色を帯びていた。
「ピストル決闘ね~。まさか、この時代に復活するとは、一ノ瀬さんも復古趣味だこと」
先生は、他人事のように笑っている。
「『郵便部』、終わりなんでしょうか」
私は、慣れてきた部活が、廃止されようとするのが、なんとなく寂しかった。時代の趨勢というのはあっても、その中で生き残るものがあってもいいはずだ。特に、「郵便部」は、伝統も長く、文通好きからすれば存在意義はまだまだあると思う。
それに、一ノ瀬さんの「郵便部」への態度は、どこか生徒会長としての仕事を超えた、私怨のようなものを感じる。
「郵便部」には、私が知らない因縁があるのだろうか。
「『郵便部:』が終わるかどうかは、結城君次第ね」
ベンゼン先生が優しく言った。そう言われた恭一は、うつむいたが、それでも笑って見せた。
「責任重大だな~ 」
「そうよ、あの子のこともあるのだから」
ベンゼン先生のつぶやきが聞こえた。
あの子……?
恭一はそれを聞いて、こぶしを握り締めた。
「先生、俺は精一杯やるのみです」
「そう。では、こういうしかないわね。『頑張って、けれどなるがままに』」
ベンゼン先生はそう言うと、恭一の肩を叩いた。恭一は、うっす、とちょっとくすんだ声でつぶやいた。
昼休み終了のチャイムが鳴った。山崎先生は、次の授業の準備があるからと立ち去った。ベンゼン先生は、自転車をかついで階段の前に立つと、鬼の形相で登っていった。
私たちも、教室に戻った。どことなく、恭一は曇った顔つきのままだった。
「悪いけど、今日の放課後はお前ひとりで仕分けしてくれ。俺は、明日の準備がある」
恭一の言葉に、私はうなずいた。普段は頼りない幼なじみだが、今日の恭一は、どこか「闇を抱えた男」のようだった。そんな恭一に、してあげられることがあれば、してあげよう。私はそう決めていた。
かの有名な、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の曲が、校内に爆音で流れる中、サビを鼻歌で歌いながら各教室を回るのは、私の幼馴染、結城恭一だ。私は彼を横目でちらっと見ると、肩から下げた赤いバッグの中から、最後の手紙を出して、恭一に渡した。
「これ、最後」
「お、サンキュー。えっと……美術部部室か。ここからだと、昼休み終了までには走っていかなきゃな」
私たちは、阿吽の呼吸でうなずくと、二人で走り出した。そして、
「校内静粛」
の貼り紙なんて、見えないことにした。
恭一と私の二人は、「郵便部」の部長と部員だ。たった二名の部活で、私は一人で「学内便」の配達をやっていた恭一を、「月に四回、学食でミニパフェをおごってもらうこと」を条件に、仕方なく手伝うために入部した。
「郵便部」は、この進学校「青南高校」で、生徒間の携帯でのやり取りを禁止するために、昼休みを使って「学内便」を運んでいる。もともとは、携帯なんてなかった時代の遺物で、「プリーズ・ミスター・ポストマン」の曲が流れて、「学内便」の配達を知らせるのもその頃の名残だ。
「学内便」は、好きな便せんに封筒を使って(ハガキも可能だが、切手が印字されているタイプは不可)、一シート三十円で、購買部で売られている「切手」を買って、校内各所に設置された「ポスト」に投函する。あとは、私たちが放課後の時間を使って仕分けし、翌日昼休みに配達するのだ。「切手」代は、部の予算になるが、主に「切手」(正式名は当局をはばかって「切手シール」だ)のデザインをしてくれている、美術部員におごる経費となる。接待と言えば、まあそうだ。
だが、最近は様々な事件も起こり、保護者からの要求もあるため、校内での携帯使用がだんだん黙認され始めた。そうなると、壊滅的ダメージを受けるのが、わが「郵便部」だ。メールとSNSに圧倒され、日に日に「学内便」は数を減らしていった。それで、生徒会からも「郵便部不要論」が出る始末、いつ潰されるやらわかったものではない。
それなのに、この男、結城恭一は堂々としているといえば聞こえがいいが、何を考えているのやら、いつもにやにや笑っていて、配達のついでに校内の女子たちを口説いていく。女子たちも手慣れたもので、軽くあしらっている。私は彼の女好き、フェミニストぶりを知っているので、やれやれとため息をつくばかりだが、昔はもっとまじめだった。いつからだろう、こんな恭一になったのは……。
「はーい、『郵便部』でございますよ~。お手紙一通、しかとお届けに参りました~! 」
恭一は、部室のドアを開けておどけて言う。部室には、「切手シール」のデザイン監修をしてくれる講師の山崎先生がいた。
「おや、ご苦労様。僕に手紙? ……まさか、また亀崎先生では」
「ベンゼン先生ですよ」
恭一がにやにやしながら、手紙を先生に押し付けた。先生は、露骨に嫌そうな顔をしたが、生徒の前だと思ったのか、元のかっこいいポーカーフェイスに戻った。
「……いらない、と言っても、置いていくんだろうな」
「宛先人も宛先も不明ではありませんので」
私は静かに言い添えた。
「これは、ある意味『不幸の手紙』だな……」
山崎先生は、眼鏡の奥の、切れ長で涼し気な目を曇らせた。
亀崎先生――ベンゼン環に美を見出すところから、通称ベンゼン先生――は、「郵便部」の顧問である。ただし、オネエの化学教師、この山崎先生にほれこんで、実験室で惚れ薬の生成にいそしんでいるという噂がなきにしもあらずである。亀崎先生は、「郵便部」の仕事を増やして、存在意義を表に出してやろうとしてくれるのだが、その方法が、毎日毎日山崎先生に「恋文」を送りつけることであった。今までに配った手紙の数は、膨大なものだ。彼(女)の理屈は、
「苗字に同じ漢字が使われているなんて、運命よ、運命」
ということだった。もちろん、山崎先生は鼻もひっかけない。でも、そこがよいのだという。
「簡単に落ちない男ほど、恋心が燃え立つというものよ」
とは、当のベンゼン先生の言葉である。
「次の『切手』のデザインだが」
山崎先生が、「切手」の絵柄一覧が印刷された紙をひらりと見せてくれた。恭一はにっと笑ってのぞきこむ。そして、ぱんと手を打ち鳴らした。
「おお、いいセンス! かわいいですね! ハートにキラキラ星、……ん? これは……矢? 」
「キューピッドの矢だそうだ」
女子向けの「切手」だ。そもそも「差出人」は、文通が趣味の女子が多いので、このチョイスはいい。
その時だった。私たちが入ってきて開け放したままだった、美術部部室のドアの向こうから、何かが飛んできて、掲示板に刺さった。よく見ると、小さな矢に手紙が結び付けられている。
矢文だ!
「キューピッドの話の時に、矢文とは……タイミングぴったり、汝やるのう」
恭一は、どこかピントの外れたことを言っている。いや、もっと、危ないとか、なぜ矢文なのかとか、そういったことを心配してもらいたいものだ。時々時代がかった言い回しをする恭一に、山崎先生も苦笑している。
「掲示板に刺さってよかった。怪我がなくて」
私は、そう言いながら矢に近寄って、引っこ抜いた。矢に、達筆な毛筆でさらさらと書かれた手紙がくくりつけられているが、達筆すぎて読めない。それで、書道のたしなみもある山崎先生に、解読をお願いした。
「果たし状、だそうだ」
先生は、眼鏡の位置を指で直しながら、軽く言った。
果たし状……? いったい誰が。
「明日(みょうにち)放課後、決闘を申し込みます。そちらが負ければ『郵便部』は廃部とのこと、生徒会臨時閣議で決定いたしましたので、通知いたします。場所は体育館、方法はピストル、介添人は一人お付けになってください。それでは明日。
生徒会長 一ノ瀬 真生(まお) 」
生徒会長・一ノ瀬さんは、男装の麗人、校内では男子の制服を身に着け、一部の女子達から「お姉さま」と人気が高い。制服の件は、PTA会長の娘であるから、父親である会長のごり押しで許されたという。また、弓道部の部長でもあり、三段の腕前だそうだ。
そして、この「ピストルによる決闘」は、この高校が男子校だった時からの伝統である。もっとも本当のピストルを使うわけではなく、インクが仕込まれた弾丸を使った摸擬銃による決闘である。男装の麗人、一ノ瀬さんが好みそうな方法だ。
「まあ、本当につぶす気なんだな」
山崎先生が他人事のように言う。
「先日も、美術の授業の時に『親衛隊』の女子達を使って、『切手』のデザイン案を破り捨てていったからな」
「そんなに、邪魔なのかな」
ぽつりと恭一が言った。私はそっと言った。
「邪魔ではないと思うけど、時代の流れなんじゃないかな」
「だって、会長は矢文を使うし、決闘も申し込むじゃないか。俺たちが、昼休みを捧げて配達するのを邪魔しなくてもいいじゃないか」
「確かにそうだけど、一ノ瀬さんのことは予算かからないもの。私たちの場合、部活だからどうしても予算がかさむのよ、きっと」
「……そうか。それに……いや」
恭一は、唇をかんだ。私は、この機会に聞いてみた。
「どうして、そこまで『郵便部』にこだわるの。あんた、一人でもやり続けるって、前に言っていたよね。なにかあったの」
「まあ、明日の決闘で勝ったら、教えてやり申そう」
彼は元のにやにやした笑顔を浮かべて、果たし状を手にして、ポケットにねじり込んだ。
その時、顧問のベンゼン先生が自転車に乗ってやってきた。ちりんちりんとベルを鳴らしている。
「はいはい、『郵便部』存続の危機ね」
先生は、自転車を愛し、隣県から越境して自転車通勤をして、校内を自転車で走り回る異色の教師だ。階段はどうするのかといえば、かついで登り下りする。先生のたくましい筋肉質な腕が、ひらひらのレースのワンピースから見え隠れするのは、昼休みの名物である。もともと足が悪かったベンゼン先生のための特例だったが、足が治ってからも、自転車愛のための校内走行は止まず、校内一の学歴を持つ先生をよそに引き抜かれないための措置として、自転車走行が認められているとか。
「……亀崎先生」
山崎先生が、ふうっとため息をついて、ベンゼン先生の方を見ないように、窓の外へ視線をずらした。私は疑問を素直にぶつける。
「なぜおわかりなんですか」
「……まさか、盗聴しているんじゃないでしょうね」
山崎先生が、はっとして言う。ベンゼン先生は、
「さ、さあ、どうしてでしょうね~ 」
などと言いながら、話を元に戻そうとする。山崎先生は、しばらく考えていたが、ベンゼン先生の、
「『疑わしきは罰せず』です」
という、刑法の大原則の引用で、しぶしぶ引き下がった。……たぶん、山崎先生が正しいと思うのだが。
「……で、結城君は決闘に臨むの? 」
「そうですね~、仕方ないですよね~ 」
恭一がにやにや笑っているが、その笑みにはどこか悲しい色を帯びていた。
「ピストル決闘ね~。まさか、この時代に復活するとは、一ノ瀬さんも復古趣味だこと」
先生は、他人事のように笑っている。
「『郵便部』、終わりなんでしょうか」
私は、慣れてきた部活が、廃止されようとするのが、なんとなく寂しかった。時代の趨勢というのはあっても、その中で生き残るものがあってもいいはずだ。特に、「郵便部」は、伝統も長く、文通好きからすれば存在意義はまだまだあると思う。
それに、一ノ瀬さんの「郵便部」への態度は、どこか生徒会長としての仕事を超えた、私怨のようなものを感じる。
「郵便部」には、私が知らない因縁があるのだろうか。
「『郵便部:』が終わるかどうかは、結城君次第ね」
ベンゼン先生が優しく言った。そう言われた恭一は、うつむいたが、それでも笑って見せた。
「責任重大だな~ 」
「そうよ、あの子のこともあるのだから」
ベンゼン先生のつぶやきが聞こえた。
あの子……?
恭一はそれを聞いて、こぶしを握り締めた。
「先生、俺は精一杯やるのみです」
「そう。では、こういうしかないわね。『頑張って、けれどなるがままに』」
ベンゼン先生はそう言うと、恭一の肩を叩いた。恭一は、うっす、とちょっとくすんだ声でつぶやいた。
昼休み終了のチャイムが鳴った。山崎先生は、次の授業の準備があるからと立ち去った。ベンゼン先生は、自転車をかついで階段の前に立つと、鬼の形相で登っていった。
私たちも、教室に戻った。どことなく、恭一は曇った顔つきのままだった。
「悪いけど、今日の放課後はお前ひとりで仕分けしてくれ。俺は、明日の準備がある」
恭一の言葉に、私はうなずいた。普段は頼りない幼なじみだが、今日の恭一は、どこか「闇を抱えた男」のようだった。そんな恭一に、してあげられることがあれば、してあげよう。私はそう決めていた。
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