愛すれど…愛ゆえに…
22、愛別離苦
私の視界にある人物の姿が飛び込んだ。
それは、外出先から帰ってきたスーツ姿の冬季也さんだった。
(ニキのマンションエントランス)
冬季也「伊吹ちゃん?」
伊吹 「と、冬季也さん」
冬季也「久しぶりだね」
伊吹 「は、はい。お久しぶりです」
冬季也「今日はどうしたの?
もしかして、ニキを訪ねてきた?」
伊吹 「あっ。いえ……」
冬季也「どうしたの。
いつもの伊吹ちゃんらしくないなぁ(微笑)
そうだ。よかったら上がってコーヒーでも飲みながら話さない?
ちょうど美味しいコーヒー豆を手に入れたばかりなんだ」
伊吹 「えっ。でも、お部屋にニキさんがいるんじゃあ」
冬季也「そっか。伊吹ちゃんはまだ知らないんだ。
実はね、先月このマンションの一室に空きがでてね、
それもニキの部屋の隣だったから、今はそこに住んでるんだよ。
いつまでもあいつに迷惑かけられないしさ」
伊吹 「そうなんですか」
冬季也「それにニキは急遽、休暇を取って留守してるよ。
明後日には帰ってくるはずだけど、何か急用だった?」
伊吹 「私、別にニキさんには、何も用事はなくて」
冬季也「そう。だったら僕一人だから遠慮せずにどうぞ」
伊吹 「は、はい。
それじゃあ、お言葉に甘えて少しだけお邪魔します」
冬季也「うん(微笑)」
突発的な申し出に対処できなかった私は、
冬季也さんに言われるがまま、お宅にお邪魔することとなった。
冬季也さんはドアキーをさして鍵を開けた。
二人してエレベーターで9階まで上がり、共用廊下を歩いてアルコーブに着く。
通路をまっすぐいくと一番奥にあるニキさんの家。
冬季也さんは私の様子に気がついていたのか、
玄関のカギを回しドアを開けると、私の背中に手を添えて招き入れる。
チラッとニキさんの家の玄関に視線をやった彼は玄関のドアをゆっくり閉めた。
(冬季也の家、リビング)
冬季也「伊吹ちゃん。
そこのソファーに座ってて。
今飛び切りうまいコーヒー入れるからね」
伊吹 「こんなお時間に突然すみません」
冬季也「そんな、気にしないで。僕が誘ったんだから」
リビングに入った冬季也さんはキッチンに向かい、
コーヒーの準備を始めた。
私はソファーに座って窓に目をやる。
外はすっかり暗くなっていた。
間取りはニキさんの部屋と同じだったからか、初めて来た気がしない。
でも、ずっと憧れてた冬季也さんと二人っきりでいる緊張はある。
真新しいレースのカーテンが窓の隙間から入ってくる風に微かに揺れ、
少しするとコーヒーの香ばしい香りも部屋中に漂ってきた。
静かだった部屋にジャズのピアノ曲が流れて、
一瞬でカフェでもきたようなリラックス空間になる。
部屋着に着替えた冬季也さんがリビングに入ってきて、
私にマグカップを渡してくれた。
冬季也「はい、どうぞ」
伊吹 「ありがとうございます。
頂きます……ん!美味しいー!」
冬季也「でしょ(笑)
それは“コピ・ルアック”って言うんだよ。
コーヒー愛好家垂涎の豆なんだ」
伊吹 「コピ・ルアック……
すごく香りが良くて飲みやすいですね」
冬季也「うん。甘い香りとすっきりした酸味がある」
伊吹 「こんな高級で美味しいコーヒーを頂けるなんて幸せだわ」
冬季也「伊吹ちゃんが気に入ってくれてよかったよ。
それに、やっと笑ってくれたね(微笑)」
伊吹 「あっ」
冬季也「伊吹ちゃん。ニキに会いに来たんじゃないの?
ニキと何かあった?」
私はマグカップを両手で持ったまま、
冬季也さんにニキさんが今どうしてるのか、
舞香さんという女性が、ニキさんと今どうなっているのか、
聞くべきか聞かざるべきか迷っていた。
俯き深刻な顔で黙り込む私の様子を伺うように見つめていた冬季也さんは、
ソファーに座ったまま、私の顔を少し覗き込み宥めるように話しかけてくる。
久しぶりに彼の温顔に接して癒され、
甘えたくなってしまった私は重い口を開いたのだ。
冬季也「もしかしてあいつと喧嘩でもしたの?」
伊吹 「あの、冬季也。舞香さんって知ってますか?」
冬季也「舞香さん?ああ、知ってるよ(笑)
舞香さんは、ニキの兄貴翔琉の恋人桜さんの親友だよ。
伊吹ちゃんが何故、舞香さんのことを?」
伊吹 「(桜さんの親友……)
ニキさんと付き合ってたって聞いたんです。
以前、鴻美さんから……」
冬季也「そう。ニキからは聞いてないの?」
伊吹 「はい。聞いたけど、私には関係ないって言われて」
冬季也「そっか。関係ない、か」
伊吹 「冬季也さん、教えてくれませんか?
その人はどんな女性なんですか?」
冬季也さんは暫く真剣な顔をして詰め寄る私を見つめていたけれど
コーヒーを飲みながら、優しい声で私の問いに答えてくれた。
冬季也「舞香さんは、とっても物静かなで優形な女性だったよ。
ニキが彼女と出逢ったのは桜さんの紹介で、
恋愛に無頓着なニキを翔琉が誘った。
その当時は僕も別れた彼女、希未(のぞみ)がいたから、
僕らも加わって6人でバーベキューをしたんだ。
それがきっかけで二人は付き合うようになったんだよ。
彼女はもちろん、ニキもあまりしゃべる奴じゃなかったから、
とても素朴で温和なカップルだったな。
ニキが何かを言っても笑って「はい」って言うような女性で、
二人はこのままうまく付き合うだろうと僕らは思ってたよ」
伊吹 「そ、そうですか……」
冬季也「でも、鴻美事件があって彼女は変わった。
鴻美は桜さんに、舞香さんが翔琉とできてる嘘の情報を流して、
翔琉を自分のものにするために仲違いさせた。
その後で、舞香さんをニキからも引き離したんだ。
住まいも職場も辞めて、ずっと傍から離れずにいて、
彼女を鴻美の親が所有しているコテージに3ケ月も匿ってた」
伊吹「えっ!?3ケ月」
冬季也さんの口から出てくる悲惨な舞香さんの話に耳を傾けながら、
私は姫のことと照らし合わせていた。
そして何故、鴻美さんがこんなことを繰り返していたのか、
話中に解決の糸口があるんじゃないかと思い、
落ち込みそうになる気持ちを必死でこらえ聞いていた。
伊吹 「それでその後、舞香さんはどうなったんですか?」
冬季也「結局、ニキが居場所を探し当てて連れ戻したよ。
その時は僕も一緒だったけどね。
彼女は別人になっていたよ」
伊吹 「別人……」
冬季也「ニキと僕が、翔琉と鴻美の関係を知ったのはそのあとだった。
ニキは兄貴と大喧嘩してうちを出てここにきたんだよ」
伊吹 「ニキさんはそれから、舞香さんとは、その……」
冬季也「付き合ってたかってこと?」
伊吹 「は、はい」
冬季也「あの事件後、一緒に住もうと言ったらしいけど彼女が拒んだそうだ。
あいつは肝心な時に、
愛する人を守れなかったことを酷く悔やんでた。
その後もニキは彼女との結婚を考えていたんだと思う。
彼女の心と体に大きな傷を負わせてしまった償いもあっただろうけど」
伊吹 「結婚、ですか」
冬季也「伊吹ちゃん、こんな話してごめんね。
伊吹ちゃんからすれば耳を塞ぎたくなることばかりを、
僕は話しているかもしれないけど」
伊吹 「冬季也さん、いいんです。
私が聞きたいってお願いしたんですから。
それで、今もニキさんと舞香さんは関わりが?
その、ニキさんは今でも、彼女のことが好きなんですか?」
冬季也「うん。それがね……」
結婚という二文字を聞いて動揺し、心臓はバクバクしている。
質問を投げかけておきながら、彼の口から次に出てくる言葉を聞くのが怖い。
ニキさんの過去にショックを受けて、肩を落とし沈痛な面持ちの私を
宥めるような眼差しで窺う冬季也さんは、躊躇いがちに応えた。
冬季也「ニキは今、舞香さんのところにいるんだ」
伊吹 「えっ」
冬季也「2カ月前に結婚が決まって」
伊吹 「2カ月前って。ウソ……」
冬季也「伊吹ちゃん?」
伊吹 「そんなのウソよ。そんなの……
(2カ月前なんて、私たちが仲違いしてすぐじゃない!
いくら私が酷いことを言ったからって。
ニキさん。こんな仕打ち、酷いよ。酷すぎる……)」
想像していたよりも遥かに深かった二人の関係と事実が胸を抉り、
冬季也さんの一言が私のハートに止めの杭を刺した。
ニキさんとの別れを予感したと同時に、
私の両目からぽろぽろと大粒の涙が止めどなく流れ出す。
愛別離苦を受け止める全身は大きく震え、
過呼吸になりそうなくらい息苦しく、眩暈すら誘発しそうだ。
私は化粧崩れした顔を見られたくなくて、頬を伝う涙の川を両手で押さえた。
冬季也さんは立ち上がり、ラックからハンカチを取り手渡すと、
私の傍に来て震える肩をゆっくり引き寄せ、何も言わずに優しく抱きしめる。
そして冬季也さんは泣きじゃくる私のおでこにキスをした。
それはとても温かいキスで、潰れそうな私を救ってくれるようだった。
(千葉県鴨川、舞香の実家)
綺麗に剪定された木々が海沿いの建物を囲み、青々と茂る庭の芝生の上で、
麻のひざ掛けをした髪の長い女性がひとり、
ロッキングチェアに座って薄暗い海をぼんやり眺めていた。
その女性は見目麗しく、とても目を細め幸せそうに笑みを浮かべている。
向琉 「舞香。風が強くなってきたよ。
身体が冷えたら大変だ。
もう家に入らないと風邪をひくから中に入ろう」
舞香 「向琉。もう少しいい?
もう少しだけ海を見ていたいの。
明日にはこの景色も見れなくなるから」
向琉 「何言ってんの。
お腹の子供に障ったらどうする。
別に海外に引っ越すわけじゃないのに。
また見たくなったらいつでもここに戻ればいいだろ?」
舞香 「そうねぇ。
その時は今日みたく向琉にお願いすればいいものね」
向琉 「う、うん」
舞香母「舞香、向琉さん。
お食事の支度できたから二人ともいらっしゃい。
結婚式の前におじいちゃんにもちゃんと挨拶してね」
舞香 「はーい」
向琉 「ああ、いいから。僕に掴って」
舞香 「ありがとう。向琉」
舞香さんは嬉しそうにニキさんを見上げ、秋波を送る。
ニキさんは椅子から立ち上がろうとする舞香さんを優しく抱きかかえ、
親族の待つ母屋へ彼女を連れて行った。
(続く)
この物語はフィクションです。