愛すれど…愛ゆえに…
(伊吹のアパート“ベルメゾンの前)
伊吹「向琉。どうしたの?」
向琉「あいつ……」
きょとんとしたまま顔を覗き込むように見た。
彼は前方のある一点を凝視して無言のまま怖い顔を浮かべてる。
私もニキさんの見つめる先、アパートの玄関を身た。
すると、真っ赤なスーツ姿でボブヘアの女性がひとり、
大きな紙袋ふたつを持って立っているのが見えたのだ。
私は目を凝らして、その女性が誰なのか再度確認する。
それが誰であるか分かった途端、
私の胸にドキン!と波打ち、驚きの衝撃と波紋が広がった。
スーツ姿の女性、それは山本鴻美さんだったから。
彼女も私たちの姿に気がついてゆっくり近づいてくる。
彼女との距離が縮まるのに比例して、
私の右腕を握るニキさんの手に力が入り、
その表情はどんどん厳しい顔つきに変化する。
そして自分の後ろに私を隠そうと右手を引っ張った。
鴻美「こんにちは」
向琉「今頃何しにきた」
伊吹「向琉」
鴻美「あなた達……もしかして、付き合ってるの?」
伊吹「あの……」
向琉「伊吹、何も言うな」
鴻美「伊吹さんは、あれから仁木に舞香のこと聞けたの?」
向琉「そんなこと、お前には関係ない。
もう僕たちに用はないはずだ。
帰れ。話すことは何もない」
鴻美「ええ、そうよね。
関係はないし、迷惑よね……」
鴻美さんは悲しそうな顔で深々と頭を下げると、
ゆっくり私たちに背中を向けて立ち去ろうとする。
私は彼女の残念そうな表情から、訪ねてきたのには訳があると察して、
このまま彼女を帰すわけにはいかないと判断する。
これはずっと前から、あの新日本橋駅の裏路地で彼女と会った時から、
ずっと気にかかっていたことで、彼女を救えなかったことは今でも心残り。
これ以上、悲しみを増やしてはいけないと思ったのもあった。
私は向琉の手を解き、鴻美さんを追うようにニキさんの前に出る。
私の呼びかけに彼女が足を止め、徐に振り返った。
向琉「伊吹!?」
伊吹「鴻美さん!待って!」
向琉「何言ってる!」
伊吹「何か、私たちに話しがあるんでしょ?
だからここで待ってたんでしょ?」
鴻美「……」
伊吹「いいのよ。遠慮なく言って?
私に用があるなら話して」
鴻美さんは私の後ろで仁王立ちするニキさんの反応を気にしている。
彼が怒っているのが分かるだけに、私も内心は躊躇いもあったけど、
どきどきしながらも彼女の答えを待つ。
再三の呼びかけに、申し訳なさそうに反応し始めた。
鴻美「あの……姫の荷物を持ってきたの」
伊吹「えっ」
鴻美「あの日、貴女から返してって言われてた姫の荷物。
あれから警察に連れていかれたのもあって、
京橋のマンションには帰れなかったの、私」
伊吹「あぁ……」
鴻美「それがきっかけで住まいも家具もうんもすんもなしに、
そのまま義父から引き払われてしまったの。
だから全部は返すことができなくなったけど、
これを……貴女との約束だったから。
遅くなってごめんなさいね」
伊吹「鴻美さん……覚えてたの?あの日の約束」
鴻美「ええ。だって、念書にサインしたから(笑)
ねっ、仁木さん」
向琉「……」
紙袋を差し出し頭を下げる鴻美さん。
私は咄嗟にニキさんの顔を見た。
すると、彼の顔から先ほどの睨むような表情はなくなっていて、
黙ったままで鴻美さんを静観していた。
伊吹「あ、ありがとう。姫もきっと喜ぶわ」
鴻美「ええ。
本当は、姫本人に渡すべきなんだろうけど、
私にはもう会いたくないと思うから。
それに住まいも携帯も変わってるし、
貴女の住まいしか分からなかったのよ」
伊吹「そう」
鴻美「それと。これも姫に渡しといてほしいの」
伊吹「何?これは」
鴻美「その中に100万入ってる」
伊吹「えっ!?どうしてこんな大金!」
鴻美「彼女の貯金とカードローンの返済分よ。
私が無理矢理彼女に服や装飾品を買わせたから、
支払いにきっと困ってるだろうって思って」
伊吹「鴻美さん……
貴女自身は、大丈夫なの?
いきなりこんな大金を返しても」
鴻美「ええ。
それはマンションを売ったお金だから大丈夫。
あぁ、それと……」
鴻美さんはニキさんに近寄って彼にも封筒を渡した。
受け取った彼は困惑ぎみで、じっと鴻美さんを見つめ冷たく言い放つ。
向琉「なんだ。これ」
鴻美「舞香に渡してほしい。
彼女の通帳と印鑑が入ってる。
そして『ごめんなさい』って伝えてほしいの」
向琉「わかった。これは渡しとく」
鴻美「仁木さん。あの……今まで、
今まで貴方の大切な人たちを傷つけたこと、許してください。
本当にすみませんでした」
伊吹「鴻美さん……」
向琉「……」
鴻美「それじゃあ、私は帰ります。
伊吹さん。
あのとき貴女が『私を助けて』って言ってくれたこと、
すごく嬉しかったわ」
伊吹「それは……」
鴻美「あんな風に私のことを思ってくれる人は今まで居なかったんだ。
もっと早くに貴女に出会えてたら、
私の人生も大きく変わってたかもしれない。
貴女のようなお節介な友達と巡り合えてたらね」
伊吹「鴻美さん」
鴻美「それじゃ。さようなら」
鴻美さんは下げていた頭を上げると、後ろを向き来た道を歩き出した。
すると……
ニキさんが彼女を呼び止めるたのだ。
鴻美さんはその場で振り返り、驚いた顔で彼を直視している。
呼び止めておきながら、なかなか言葉を発しなかったニキさんだったけど、
観念したように溜息をつくと話し出した。
向琉「おい!待てよ!」
伊吹「向琉?」
向琉「ふーっ。あの。うちの兄貴が、
失礼なことをしてしまって、すまなかった」
鴻美「えっ」
向琉「本当に。大変申し訳ありませんでした!」
鴻美「仁木さん……」
膝に頭がつくかと思うほど頭を下げてなかなか頭を上げないニキさんを、
鴻美さんは穏やかな表情で見つめている。
しかし翔琉さんとの出来事を思い出したのかもしれない。
彼の態度に感極まった彼女は、両手で顔を覆い声を殺して泣いていたけれど、
すぐに涙を拭って、優しい微笑みを浮かべて会釈をすると帰っていった。
その歩く背中はとても寂しそうで、彼女が遠ざかれば遠ざかるほど、
私の目からはどんどん涙が溢れてくる。
本当に友達になれればよかったねと、
私は彼女の背中に両手を合わせて、鴻美さんの行く末に幸あれと祈った。
その姿が見えなくなるまで……
時間(とき)は、ふたりに許す勇気と謝る勇気を与えてくれた。
ニキさんはいつまでも泣いている私の頭をぐしゃぐしゃに撫でて、
慰めるように抱きしめてkissをした。
その愛のこもったkissは優しく甘く、でもちょっぴり塩っぱい味がする。
それは私の涙の味だけでなく、ニキさんの涙の味でもあったのだった。
(the end)