こうして僕は、君に泳がされている
そこまでして、何のために。
言いたくなる気持ちを、ぐっと抑えた。きっと、稲地君は私に進路を合わせているわけじゃない。たまたま、何かの偶然が重なっただけなのだと結論づけた。抗議などしたら、自意識過剰だと笑われるに違いない。
相手は、何と言っても二度のオリンピックを経験した、スーパースターなのだ。
18歳で迎えた一度目のオリンピックは、メダルにこそ届かなかったが、若き次世代のエースともてはやされた。
二度目のオリンピックでは、周囲の期待通りにメダルを獲得した。途中までトップを独走していた世界王者に対して、素晴らしい追い上げを見せ、あと0.03秒のところまで迫った。惜敗のレースの後、彼がインタビューで答えた「爪切るんじゃなかった!!」という言葉は、その年の流行語大賞にもノミネートされた。(実際には爪を伸ばしてもタイムは伸びないらしい)
オリンピックに出る度に、彼は有名人になり、人気者になった。
時折見かける彼の周りを、いつも沢山の友達や、かわいい女の子達が取り囲んでいた。彼女だって、これまで何人も居たのを知っている。
『遙は、いつ僕と付き合ってくれるの?』
強引に連絡先を交換されたのは、二度目のオリンピックの後。この頃には、彼の言葉も冗談か本気か私には判別が付かなくなってきていた。
彼は猫のように気まぐれに、時折、私をからかうためだけに近づいてくる。
これほどまでに執拗だと、単なる気まぐれで片付けてよいものなのか、悩み始めていた。
それでも、彼の言葉を真に受けてはいけないと、心を引き締める。
彼は、私とは違う世界の人間なのだと。
決して、何かの拍子にでも、うっかり好きになってはいけない男なのだと。
繰り返し、繰り返し自分に言い聞かせた。
そして、彼からの電話に私が出ることはなくなった。